第六十九話:誇り高き衛兵と、眠りのシチュー(3/3)
静寂が、店を支配していた。
いや、静寂ではない。皿の上で、緑色のシチューが放つ、温かい湯気と、そこから立ち上る、ミルクとチーズの、優しい香りだけが、そこにあった。
それは、眠りを失ったグリフォンの衛兵が、自らの手で、初めて「共に」味わう、休息の香りだった。
彼は、震える手で、スプーンを手に取った。
そして、その、緑色の奇跡を、チーズと、柔らかく煮込まれた鶏肉と共に、大きくすくい上げ、おそるおそる、その一口を、唇に運んだ。
その瞬間、彼の、長い間、張り詰めていた世界に、鮮やかな温もりが戻った。
(…あたたかい…!)
それは、ただの味覚ではなかった。魂が、震えた。
鶏肉の、どこまでも優しい旨味。チーズの、濃厚なコク。ほうれん草の、大地の力強い味わい。そして、それら全てを包み込む、ミルクの、懐かしい甘み。
バラバラだったはずの全ての「命」が、口の中で、一つの、完璧な「美味しい」という名の、温かいエネルギーへと、昇華していく。
それは、ただの味ではなかった。
「大丈夫だ」
「もう、戦わなくていい」
「今はただ、休めばいい」
そう、料理そのものが、彼の、固く閉ざされた魂に、直接、語りかけてくるようだった。
一口ごとに、奇跡は、より確かな形となって彼の身に現れ始めた。
最高の栄養…トリプトファン、カルシウム、マグネシウムが、彼の、興奮しきっていた神経の隅々まで行き渡り、その「闘争モード」のスイッチを、内側から、優しく、優しく、オフにしていく。
今まで、ただの「重り」としてしか感じられなかった、自分の体が、内側から、じんわりと、確かな「温もり」を取り戻し始めている。
やがて、皿の上が綺麗に空になる頃には、彼の瞳には、もう、あの、血走った色はない。
そこにあったのは、内側から、安らぎという名の光で輝く、誇り高き、一羽の「衛兵」の瞳だった。
彼は、自分の、黄金の羽毛を、そっと撫でた。
カサついていたはずの羽が、内側から発光するように、潤いと、艶やかな輝きを取り戻している。
そして、何より、体が、温かい。
《……ああ……!これが、わしの、熱…。そして、これが…》
彼の、大きな頭が、こくり、と、一つ、大きく揺れた。
抗いがたい、穏やかな眠気。
彼が、何ヶ月も、忘れてしまっていた、あの、懐かしい感覚。
《…眠い…。ああ、なんと、眠いのだろう…。こんなに、穏やかな気持ちで眠くなるのは、一体、いつぶりだろうか…》
彼は、感謝の言葉を最後まで言い切ることなく、カウンターに座ったまま、こくり、こくりと、静かに船を漕ぎ始めた。
誇り高い衛兵が、その全ての緊張を解き、子供のように無防備で、穏やかな寝息を、立て始めたのだ。
「…さて、と」
俺は、空になった器を手に取り、三人の見習いたちの前に、向き直った。
その顔は、もう、恐怖に怯える子供の顔ではなかった。自分たちの仕事に、確かな手応えと誇りを見出した、本物の『料理人』の顔をしていた。
「どうだった?自分たちの力で、世界で一番誇り高い魂に、最高の休息をプレゼントした気分は」
三人は、顔を見合わせると、少し照れくさそうに、しかし、満面の笑みで、力強く頷いた。
「あれは、俺が教えただけのシチューじゃねえ。お前らが、初めて、本当の意味でぶつかり合い、一つの答えを出した、お前らの作品だ。よくやったな」
その、ぶっきらぼうな、しかし、何よりも温かい、親方からの承認の言葉。
それが、彼らにとって、どんな褒美よりも、嬉しいものだった。
三人の瞳から、また、今度は、誇らし涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
その日、森の空は、もう、衛兵の張り詰めた警戒心に凍えることはなくなった。
代わりに、どこからか、風に乗って聞こえてくる、穏やかで、大きな寝息と、その傍らで、誇らしげに厨房を磨く、三人の若き料理人たちの笑顔に、全ての命が、温かい祝福を贈るのだった。
---
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。
これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。




