第六十九話:誇り高き衛兵と、眠りのシチュー(1/3)
あの、ラミアの母ちゃんが、無事に卵を温められるようになってから、数週間。
気まぐれ食堂ねこまんまの厨房は、春本番の、心地よい活気に満ち溢れていた。
「親方!クレソン、最高のやつ、採ってきました!沢蟹と合わせたら、絶対に春の味がします!」
カゴいっぱいの春の恵みを背負い、ザックが厨房に飛び込んでくる。その瞳には、もはや単なる食材ハンターではない。食材の先に待つ「客の笑顔」までをも見据えた、プロの料理人としての強い光が宿っていた。
「親方…!ふきのとうのアク抜き、完璧です…!このほK"G"苦さこそ、冬の間に体に溜まったものを、優しく洗い流してくれるんですよね…!」
リルが、丁寧にアクを抜いた山菜を、まるで宝物でも扱うかのように、そっとザルに上げる。彼の繊細な感性は、今や、味や香りだけでなく、食材が持つ「効能」という、目に見えない理さえも、感じ取れるようになっていた。
「親方!店の裏の薪、全部割っておきました!これで、どんなに忙しくなっても、石窯の火は絶やしません!」
ゴルが、額に汗を浮かべ、しかし、満面の笑みで報告する。彼の有り余るエネルギーは、もはや、森を騒がすためのものではない。この、温かい厨房の灯火を、仲間たちと共に守り抜くための、頼もしい力へと変わっていた。
その、あまりにも頼もしい成長ぶりに、俺、仏田武ことぶっさんは、カウンター席から、茶をすすりながら、ただ、目を細めて見守っていた。
(…たくましくなりやがって。もう、俺が口を出す幕じゃねえな)
そんな、新しい日常が始まった、あるうららかな春の昼下がりのことだった。
カランコロン、と、店のドアが開く。
そこに立っていたのは、一羽の、巨大なグリフォンだった。
(…ん?グリフォンか。だが、前に来た旦那(第二話参照)とは、羽の色艶も、雰囲気も違うな。別の個体か)
その姿は、伝説に語られるような誇高さとは、どこか様子が違っていた。
その瞳は、獲物を狙う射手のものではなく、血走り、ひどく疲れ切っている。自慢の黄金の羽も、手入れを怠ったかのように、わずかに艶を失っていた。
「…いらっしゃいませ」
ザックが、店の代表として、一歩前に出る。
すると、グリフォン――ガイウスと名乗った――は、その、気品ある顔を、苦痛に歪めた。
《…ああ。すまないが、何か、食わせてくれ。いや、それよりも、何か、目が覚めるような、強烈な薬はないか…?》
脳内に響いてきたのは、気品の中にも、深い焦燥と、極度の疲労を秘めた声だった。
《我は、一族の巣を守る衛兵だ。だが、ここ数ヶ月、どういうわけか、全く眠れなくなってしまったのだ。夜、目を閉じても、森の、どんな小さな物音にも、神経が反応してしまう。このままでは、衛兵としての務めが果たせぬどころか、疲労で、飛ぶことさえできなくなってしまう…!》
その、あまりにも切実な、職業病とも言える悩み。
厨房の三人の顔が、真剣なものに変わるのが、気配で分かった。
俺は、いつものように、口を開きかけた。
だが、その前に、ザックが、静かに、俺の方を振り返った。
その瞳には、こう書かれていた。「親方、俺たちに、やらせてください」と。
俺は、ただ、黙って、深く頷いた。
ザックは、ガイウスの前に向き直ると、まず、その血走った瞳と、やつれた姿を、しかし、決して憐れむのではなく、ただ、その苦しみの本質を測るように、静かに見つめた。
そして、リルとゴルと共に、厨房の隅で、小さな円陣を組む。
「…眠れない…か。だったら、あの、ケットシーの大将(第五十七話)の時みてえに、ガツンと気合が入る、生姜焼きみてえなもんか!?」ザックが結論を急ぐ。
「待って、リーダー!」リルが鋭く制止した。「彼の問題は、気だるさじゃない。神経が、興奮しすぎてるんだ。あの、不死鳥(第六十六話)の時と同じ、ストレスによる自律神経の乱れだ!必要なのは、興奮じゃなく、鎮静だよ!」
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
意見がぶつかり、厨房の空気が凍りつく。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、俺、ぶっさんの、静かな声だった。
「…お前ら、二人とも、半分正解で、半分間違いだ」
三人の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
俺は、カウンターから立ち上がると、彼らの前に、一杯の「温かいミルク」を置いた。
「あいつの体はな、スイッチが壊れてんだよ。車で言う、『アクセル』を踏みっぱなしの状態で、どうやって『ブレーキ』をかけるか忘いちまってる。『闘争モード(交感神経)』から、『休息モード(副交感神経)』に切り替える、そのスイッチがな」
俺は、ザックの目を見た。
「あいつに必要なのは、ガツンとした刺激でも、ただの癒やしでもねえ。その、壊れたスイッチを、強制的に『オフ』にしてやる、最高の『眠りの材料』だ。…そうだろ?」
俺の、あまりにも的確なヒント。
三人の脳裏に、雷が落ちた。
「…そうか!」
リルが、声を上げた。「眠りの材料…!ミルクやチーズに含まれる『トリプトファン』!それが、体の中で、眠りのホルモン…『メラトニン』に変わるんだ!僕たちのアイデアと、親方のヒント…鶏肉と、チーズ(鎮静)、そして、体を温める、根菜のポタージュ…。全部を、一つにできる!」
ザックが、ガイウスに向き直る。
その顔には、もう、一片の迷いもなかった。
「大将、俺たちに、最高の料理を作らせてくれ。あんたの、その張り詰めちまった魂に、最高の休息をプレゼントしてやる!**『月光の寝かしつけシチュー』**をな!」
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