第二十九話:雪女と感覚受容体の話 (3/3)
静寂が、店を支配していた。
雪女が、その灼熱の一口を、唇に運ぶ。俺は、ただ固唾をのんで、その瞬間を見守った。
彼女の表情は、変わらない。
まるで、ただの水を飲むかのように、その一口を、静かに飲み下した。
《……何も、感じませんわ》
脳裏に響いたのは、絶望とも諦観ともつかない、平坦な声だった。店の暖炉の炎が、ぱちり、と寂しげな音を立てる。
だが、俺は動じない。
「だろうな。言ったろ、普通のノックじゃ起きねえって。だが、チャイムは、もう鳴ってるはずだ。もう一口、いってみな」
俺の言葉に、雪女は、わずかに躊躇ためらいを見せた。だが、彼女は、もう一度、レンゲを手に取った。
二口目。
今度は、先ほどよりも少しだけ、量が多い。
そのスープが、彼女の喉を通り過ぎた、まさにその時だった。
彼女の、人形のように整っていた眉が、ぴくり、と、かすかに動いた。
《……?これは…熱さ、では、ありませんね…?舌の先が、ちりちりと…まるで、小さな氷の粒が、弾けるような…》
きたか。
しかし、次の瞬間、彼女の氷のように静かだった表情が、初めて大きく歪んだ。
《…っ!? こ、これは…何…?》
熱さではない。冷たさでもない。舌の上で、無数の灼熱の針が、一斉に神経を突き刺すような、生まれて初めての感覚。それは理解を超えた暴力的なまでの刺激となって、彼女の思考を真っ白に染め上げる。
《痛い…のか…?熱い…のか…? わからない…!》
パニックに陥る彼女に、俺は静かに、しかし力強く声をかける。
「そうだ、そいつが合図だ! 眠ってたドアベルに、叩き起きてくださいってモーニングコールが鳴り響いてる証拠だ! 怖がるな、嬢ちゃん。その衝撃の向こう側に、あんたが探し求めてるものが、必ずある!」
俺の言葉を信じて、彼女は、もう一口、スープを口に運んだ。
灼熱の針が、再び彼女の体を駆け巡る。だが、今度は、ただの痛みではなかった。
(…痛みが、引いていく…。違う、これは、溶けていくのだ。永い冬の間、わたくしの内側で凍てついていた、感覚という名の氷河が…)
暴力的な刺激が、まるで春先の雪解け水のように、穏やかな流れに変わっていく。そして、その凍てついた痛みの氷河の下から、まるで、永い眠りから覚めた泉のように、じんわりと、懐かしい何かが湧き上がってくる。
(…ああ…これが…陽だまりの記憶…。これが、『温もり』…)
彼女の全身の神経が、何百年ぶりかに、その穏やかで、優しい感覚を思い出し、歓喜に打ち震えていた。
彼女の、雪のように白かった頬に、ほんのりと、血の気が差していく。
唇が、かすかな桜色を取り戻していく。
やがて、鍋の中のスープがほとんどなくなる頃には、彼女の体から立ち上っていた絶対零度の冷気は、完全に消え失せていた。
「…さて、と」
俺は、静かに湯呑みを取り出すと、そこに、温かいほうじ茶を注いだ。そして、彼女の前に、そっと差し出す。
彼女は、自分の指先を、まるで信じられないものでも見るかのように、じっと見つめていた。そして、震えるその手を、ゆっくりと、湯呑みへと伸ばしていく。
指先が、陶器に触れる。
その瞬間、彼女の澄み切った瞳が、星が生まれたかのように、大きく見開かれた。
じんわりと、指の先から、腕へ、そして心の芯へと伝わってくる、穏やかで、確かな熱。
それは、彼女がずっと探し求めていた、「温もり」そのものだった。
その瞬間、彼女の瞳から、一筋、氷の結晶のように美しい涙が、頬を伝った。彼女は、その雫に、おそるおそる指で触れる。そして、再び驚きに目を見開いた。
自分の涙が…温かい。自分の感情が、温かい。
その事実に、彼女の心の氷が、音を立てて、完全に溶け落ちた。
「…あたたかい…」
誰に言うでもなく、彼女の唇から、何百年ぶりかの、か細く、しかし、歓喜に満ちた言葉が、こぼれ落ちた。
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