第二十九話:雪女と感覚受容体の話 (2/3)
俺の宣言に、雪女の、氷のように澄み切った瞳が、かすかに揺らめいた。
《…熱くて、辛い…鍋…。わたくしには、それがどのようなものか、想像もつきませんわ…》
「だろうな。だが、あんたのその凍てついた感覚を叩き起こすには、それくらいの荒療治が必要なんだ。まあ、黙って見てな」
俺は厨房に立つと、まず、ずっしりと重い鉄鍋を取り出した。そして、まな板の上に、今日の主役となる食材たちを並べていく。
「いいか、嬢ちゃん。あんたの体の中にある、温かさを感じるためのセンサーは、あんた自身の冷気で、完全に凍りついて眠っちまってる。そいつを叩き起こすには、普通の熱じゃダメだ。もっと強力な『鍵』で、無理やりこじ開けてやる必要がある」
俺はそう説明しながら、いくつかの真っ赤な乾燥唐辛子を、無造作に指で砕いた。ぱきり、と乾いた音がして、鼻腔を刺すような、暴力的なまでの香りが立ち上る。
「こいつに含まれる『カプサイシン』って成分が、その鍵だ。こいつはな、本来は43℃以上の熱にだけ反応する、体のセンサーを、熱がなくても直接刺激する。つまり、俺たちが『辛さ』って感じてるものの正体は、脳が『熱さ』や『痛み』と勘違いしてるだけなんだ。この、擬似的な熱で、あんたの眠った神経に、叩き起きてくださいって挨拶してやるのさ。まあ、俺も前世で聞きかじった、ただの受け売り知識だけどな」
カウンターの向こうで、雪女が、信じられないといった様子で、砕かれた唐辛子を見つめている。
俺は鉄鍋を火にかけると、たっぷりのごま油をひき、豚のひき肉と、みじん切りにしたニンニク、ショウガを投入した。
**ジューッ!**という、食欲をそそる心地よい音が、店の静寂を破る。ニンニクとショウガの香ばしい香りが立ち上り、ひき肉に焼き色がついてきたところで、豆板醤と、先ほど砕いた唐辛子を加えて、さらに炒めていく。
すると、香りの質が一変した。
香ばしさの上に、焦げ付く寸前の、食欲を最高に刺激する刺激的な香りが重なる。それは、もはや香りというより、闘争本能を直接揺さぶるような、危険な狼煙のろしだった。
《…!なんという、香り…。鼻の奥が、ちりちりと…》
雪女の、初めて感じる刺激に戸惑う心の声が聞こえてくる。彼女は、その鉄のように固かった表情を、ほんのわずかに崩し、無意識のうちに、その香りの源から身を引こうとしていた。
そこへ、丁寧に練り上げた芝麻醤と、鶏ガラと豚骨をじっくり煮込んでとった白湯スープを注ぎ込む。鍋の中は一度、乳白色の穏やかな表情を見せるが、それも束の間。俺は仕上げに、自家製のラー油を、ためらうことなく回しかけた。
乳白色のスープが、まるで純白の雪景色が夕焼けに染まるように、鮮血のような、深く、燃えるような深紅に染まっていく。
スープが煮詰まり、**「ぐつぐつ」**と地獄のように煮えたぎる様は、まさに灼熱の溶岩だ。
「よし、第一段階は完了だ」
俺は、その灼熱の鍋を、卓上コンロに乗せて、彼女の前にそっと置いた。
最後に、真っ白な大根おろしを、その灼熱の赤の上に、まるで新雪のように、ふわりと乗せる。
「お待ちどう。心を溶かす、雪見担々鍋だ」
赤と白。灼熱と静寂。
その、あまりにも鮮やかなコントラストを、雪女は、ただ呆然と見つめていた。
彼女の瞳に、燃えるような鍋の赤が、キラリと、映り込んでいる。
「さあ、食ってみな。最初は、何も感じねえかもしれねえ。だが、それが、あんたの魂が、再び熱を取り戻すための、狼煙になるはずだ」
雪女は、まるで祈るように、震える手でレンゲを握りしめた。
鍋の上の雪(大根おろし)を崩さないよう、慎重に、その灼熱のスープをすくい上げ、おそるおそる、その一口を、唇に運ぶ。
ゴクリ、と。彼女が息を呑む音が、静かな店に、やけに大きく響いた。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。




