第二十九話:雪女と感覚受容体の話 (1/3)
射手の魂が、再びその翼を取り戻してから数日。森は、本格的な冬の訪れを告げる、深い吹雪に見舞われていた。
俺、仏田武ことぶっさんは、石窯の柔らかな火を眺めながら、熱いお茶をすすっていた。外の世界は荒れ狂う風雪に閉ざされているが、この店の中だけは、穏やかな時間が流れている。
「静かでいいもんだ。たまには、こういう日も悪くねえ」
そんな独り言をこぼした、まさにその時だった。
**ゴォォォウ!**と、今までで一番強く店を揺さぶった風が、ふっと、凪いだ。いや、違う。まるで、世界の音という音が、一瞬にして消え去ったかのような、絶対的な静寂。
店の暖炉で、ぱちぱちと心地よい音を立てていた炎が、何かに怯えるかのように、一瞬だけ、弱々しく揺らめいた。
肌を刺すような冷気ではない。むしろ、この店に満ちていたはずの「温かさ」そのものが、ごっそりと奪われていくような、奇妙な感覚。
俺が、警戒しながらドアに目を向けたと同時に、それは起きた。
カランコロン、という音すら立てず、まるで幻のように、店のドアが、すーっと、静かに開いたのだ。
吹雪が吹き込むこともなく、そこに、一人の女性が立っていた。
雪のように白い肌。氷のように澄んだ瞳。そして、その身に纏うのは、まるでダイヤモンドダストを織り込んだかのような、美しい着物。
雪女だ。それも、おそらくは、この冬の森そのものを司る、高位の精霊。
だが、彼女のその美しさは、あまりにも冷たく、そして、あまりにも静かすぎた。
まるで、彼女の周りだけ、音も、熱も、感情すらも存在しない、「真空」のような、絶対的な静止に包まれている。
「…いらっしゃい」
俺が声をかけると、彼女は、ゆっくりと、音もなく店の中に入り、カウンターの席に腰を下ろした。
「まずは、温かいお茶でもどうだい? 外は、ひどい吹雪だ」
俺は、一番熱い湯を沸かし、湯気の立つ湯呑みを、彼女の前にそっと置いた。
すると、雪女は、何の躊躇もなく、その湯呑みを、素手で、しかも両手で包み込むように、そっと持ち上げた。陶器が焼けるような音を立てるはずの、その熱さに、彼女の表情は一切変わらない。ただ、そこにある「形」を、確かめているかのように。
俺は、背筋にぞっとするものを感じながら、自分の湯呑みに触れようとして、「アチッ!」と思わず手を引っ込めた。この熱さを、彼女は、何も感じていない。
《…驚きませんのね。わたくしが、化物だと、お分かりでしょうに》
脳内に響いてきたのは、冬の夜空のように、どこまでも澄み切った声だった。だが、その声の奥には、あまりにも長い時間、溶けることのなかった感情が、美しい氷の結晶のように固まってしまったかのような、深い孤独の色が湛えられていた。
「はは、今さらだよ。それより、どうしたい? あんた、何か、途方もないものを、探しに来たんじゃねえのか」
俺が尋ねると、彼女は、湯呑みの中の、決して溶けることのない氷のような瞳で、俺をじっと見つめた。
《わたくしは、もうずっと、『温かい』という感覚が、分かりません…。燃え盛る暖炉の炎に手をかざしても、この熱いお茶に触れても、何も感じないのです。ただ、そこにある『形』が、見えるだけ…》
彼女の声は、淡々としていた。だが、その淡々とした響きこそが、彼女がどれほど長い時間、その絶望と共に生きてきたのかを物語っていた。
《…昔、まだわたくしに感覚があった頃の記憶がおぼろげにあります。わたくしの降らせた雪の上で、小さな獣たちが寄り添い、眠っていたことがありました。その時、彼らの命の温もりが、雪を通して、わたくしの芯にまで届いたのです。それは、陽だまりとは違う、小さく、か弱く、しかし、何よりも尊い温もりでした…。ですが、今のわたくしには、もう何も届かない。彼らがすぐ傍にいても、そこに『形』があることしか分からないのです》
(…なるほどな。こいつは相当根が深いぞ。彼女自身の極端な低温体質が、皮膚にある、温かさを感じるための無数のセンサーを、完全に凍らせて、眠らせちまってるんだ。人間の体で言えば、重度の凍傷で神経が麻痺してるのに近い。だが、彼女の場合、それが平常運転になっちまってる。だから、普通の熱じゃ、もうセンサーは目を覚まさねえ)
だが、方法がないわけじゃない。
眠っちまったドアベルは、普通のノックじゃ起きない。なら、特別なチャイムで、叩き起こしてやるしかねえだろうが。
「嬢ちゃん、あんたのその悩み、よく分かった」
俺は、静かに、しかし燃えるような決意を瞳に宿して、全ての温もりを失った美しい精霊に、力強く宣言した。
「よし、任せとけ。今日は、君の魂に、忘れちまった熱を、もう一度思い出させてやる。世界で一番、熱くて、辛くて、そして、温かい鍋でな!」
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます!皆さんの感想や、フォロー・お気に入り登録が、何よりの励みになります。これからも、この物語を一緒に楽しんでいただけたら幸いです。




