第二十八話:ケンタウロスと筋肉の記憶 (3/3)
俺の言葉に、ケンタウロスは、ハッとしたように顔を上げた。
彼は、一度、深く息を吸い込むと、固く握りしめていた包丁から、ふっと力を抜いた。そして、まな板の上のキャベツに、ただ、刃の重みを乗せるように、そっと刃先を当てる。
トントン…トントン…。
最初は、まだぎこちなかった。だが、彼は、俺の言葉を信じて、ひたすらに、無心で、包丁を動かし続けた。
やがて、その動きから、余計な力が抜けていく。
ザクッ、という抵抗の音から、トン、トン、という、軽やかで、リズミカルな音へ。刃が、キャベツの繊維に沿って、自然に滑り込んでいく。それは、彼の指先から腕へ、そして魂へと響き渡る、忘れかけていた心地よい旋律だった。体そのものが、この動きこそが「正しい」のだと、喜んでいるのが分かった。
気づけば、まな板の上には、彼が刻んだとは思えないほど、細く、均一な、美しい千切りキャベツの山が築かれていた。
「どうだい、弟子。少しは、思い出してきたろ?」
《ああ…。不思議だ。何も考えていないのに、体が、勝手に…》
「それが、あんたの体が元々知ってる、本当の動き方だ。さて、修行は第二段階に移るぜ」
俺は、中華鍋と、炊き立てのご飯、そして刻んだ具材を彼の前に置いた。
「次は、チャーハンだ。こいつは、もっと全身を使う。手首のスナップ、腰の回転、馬体のバネ。全てを使って、鍋の中の米粒を、一粒残らず、踊らせるんだ」
ケンタウロスは、戸惑いながらも、中華鍋を手に取った。
最初は、案の定、うまくいかない。米粒をコントロールしようと意識しすぎるあまり、鍋にべちゃりとこびりついてしまう。
「違う!力を抜け!米粒を信じて、鍋の中で自由に踊らせてやれ!お前がやるのは、最高の舞台を用意してやることだけだ!滑らかなリズムだけを、体で感じろ!」
俺の檄が飛ぶ。
ケンタウロスは、歯を食いしばり、何度も、何度も、鍋を振った。
そして、その瞬間は、突然訪れた。
彼の体から、完全に力が抜けた。
手首が、腰が、馬体が、一つの流れるようなリズムで、しなやかに連動する。
鍋の中の米粒が、まるで生き物のように、ふわりと宙を舞い、パラパラと、美しい音を立てて、鍋肌を滑り落ちていく。
「…できた…。できたぞ…!」
皿に盛られたのは、米の一粒一粒が黄金色に輝く、完璧なチャーハンだった。
「ああ。最高の出来だ。だが、まだ、何かが足りねえな」
俺がそう言って、店の外の木を指さした。その枝には、一粒だけ、美味そうな木の実がなっている。
「仕上げだ。あの木の実を、矢で射落として、そのチャーハンに乗せてみな」
ケンタウロスは、こくりと頷くと、静かに、自分の白木の長弓を手に取った。
彼は、弓を構える。
そこに、もう、以前のような迷いや震えはなかった。
彼は、的を見ない。米粒を、鍋を、感じた時のように、ただ、体と、弓と、矢が、一つになる感覚に、身を委ねる。
ヒュッ!
放たれた矢は、吸い込まれるように、枝に実る木の実だけを、正確に撃ち抜いた。
木の実が、美しい放物線を描いて、チャーハンの皿の真ん中に、ぽとり、と落ちる。
「……」
ケンタウロスは、静かに弓を下ろすと、自分の手を見つめた。
そして、ゆっくりと、穏やかな笑みを浮かべた。
《ありがとう、師匠。腹が、減った》
その日、一人の孤高の射手は、縛られていた過去の自分から、解放された。弓を射る喜びを取り戻しただけでなく、料理を作るという、世界を広げるための、もう一つの翼を手に入れたのだ。
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