第4話
「先生、ごきげんよう!」
日曜日の朝から訪れた珍客に、ヴィクトル医師は少し驚いたようだった。
「マキアでしたか。ようこそ」
それでも、嫌な顔ひとつせず出迎えてくれる。彼はお優しいのだ。
「リリィもあとから来ると思うんだけど……あれぇ、おかしいなあ。私の方が先に着いちゃうなんて……」
ごちゃごちゃとごまかしながら、クリニックの庭先に設けられた小さなガゼボに踏み込む。
「お茶でも飲んで待ちますか」
先生が声をかけてくれた。願ったり叶ったりだ。
「うん!ありがとう!!」
リリィを真似るみたいにして少し可愛く伝えてみたけれど、きっと私は少しも可愛くないに違いない。だって私はヒロインじゃないから。
ややあって、お茶を持ってきてくれた先生に私は微笑みかける。
「差し入れに、手作りのお菓子を持ってきたのよ。フリーズドライのラムネ菓子なんだけど、甘くておいしいからさ。先生、味見してみてくれない?」
☆
「あれ、マキア……」
持ってきたお菓子があらかたなくなったころ、リリィがやってきた。そして、ガゼボにいる私に気付いてとびきり驚いた顔をした。
私はガゼボの椅子から立ち上がり、意地悪そうに笑って見せる。
「今ね、先生とお話してたの。でも驚いたなぁ。先生はリリィよりも、私のことが好きだっていうんだもん」
「……え?」
リリィの乾いた声。
「ね、そうなんでしょ、先生?」
私は上目遣いで問いかけてから、先生の手をギュッと握る。
突然のことに混乱しつつも、リリィはすがるような、祈るような瞳を先生に向けた。
でも、そんな目をしたってダメなんだ。
「ええ。僕はね、リリィのことは少しも好きじゃなくて」
先生は淡々と語る。
「マキアのことが好きなんです。特別なんです」
その言葉は、私の脳内でガンガンと反響した。
心がヒリヒリと震えた。涙が出そうになった。
でもこんなタイミングで涙を見せたらダメだ。私は涙目を隠すように、先生の腕にふわりと抱きついた。
「マキアが……」
リリィをチラリと見やる。この世の深淵でも見たみたいな暗い目をしていた。
「私のことを、う、裏切ったの……?」
畳み掛けるように言ってやる。
「そう。裏切ったの。ごめんね?」
「どうして……」
その暗い瞳からボロボロ、ボロボロと大粒の涙が落ちる。
「どうしてそんなことするのよっ!!!」
リリィの金切り声が響いた。
刹那。
リリィの体の周りで黒いモヤのようなものが巻き起こる。彼女の腕の中に氷の刃が出現する。
それは魔術暴走の気配だった。大きく鋭いその刃は、リリィの怒りそのものだった。
ああ、作戦はすべてうまくいった。
私は先生の肩を背後に向かってトンと押したあと、リリィに向かって歩んだ。リリィに触れるほど近くまで歩んで、言い放った。
「だって私は先生のことが好きで、リリィのことが大嫌いだもん」
絶望を絵に描いたようなリリィの顔。その瞳からこぼれ落ちる涙を見ていたら、腹に激痛が走った。
見れば、リリィが生み出した魔術の刃の一部が、私の体に深々と刺さっていた。
のたうち回りたいほどの痛み。歯を食いしばって耐えながら、私は呟く。
「なんだ……魔術、できる、じゃない……」
リリィのことを笑ってやりたかったけど、うまくいかなかった。それで、口角を少し上げた。
私の意識はそこで途絶えた。
☆
「……っ……痛」
腹部に軽い痛みを感じ、眉根を顰める。
思考を巡らす。
(そうだ……私は、リリィの魔術で)
すべて思い出した。無茶をしたけれど、どうやら無事に意識を取り戻すことができたらしい。
おそるおそる目を開ける。思考しながら、ゆっくり状況を整理する。
周囲は薄暗い。でも、知っている場所だ。
ヴィクトル医師が勤めるクリニックの処置室。そのベッドに寝かされているようだ。
窓の外がやけに赤々しい。夕方なのだろう。
(夕方?)
私は朝イチで来たのだから、ほぼ半日ほど意識を手放していたのだろう。
そう考えてからふと思う。
(数日経過してたらどうしよう……)
リリィの魔術はかなり効いた。腹部をひと突きにされたはずだけど、激痛は今はない。
ということは、きっと……。
「ああ、目覚めましたか」
それほど遠くない場所から低い声が飛んできて、私はびくりと体を震わせた。
私は、その落ち着き払った低い声をよく知っている。
「先生か……」
顔だけをそちらに向ける。
ヴィクトル医師は音もなく私のもとへと歩み寄る。白衣の裾がひらりと揺れる。
「半日寝てましたよ」
よかった。どうやらブランクは半日のみで済んだようだ。この医者はきっと、怪我を負い気を失った私のために、半日間にわたって回復術をかけ続けてくれたに違いない。
彼に怪我を治してもらうのは、8年ぶりのことだ。
「リリィは……」
声を出してから思う。自分の容態よりも先にリリィのことを気にしてしまった。どうにも滑稽だった。
そのおかしさが、なんだか妙に心の中に引っかかった。なんだかイライラしてしまって、つい声を荒げた。
「なんで、リリィの近くにいてあげないのよ……!」
「あなたはそれを望んでいるんですか?」
とびきりイヤな質問を返してきた。
この冷血医者め、と内心で毒づく。歯噛みする。
「さて、あの菓子の成分を伺えますか?おそらくサカサソウでしょう?」
私の浅知恵はすっかりバレている。
ああ、この男にはなにもかも見透かされているのかもしれない。
質問には答えず、腕で体を支えながらゆっくりと上半身を起こした。
医師は、傷の治癒具合を把握しているに違いない。私が起き上がることを止めなかったし、起き上がる手助けもしなかった。
私は手を伸ばす。
すぐ近くにいる彼の、白衣の襟をグイと掴んで、引き寄せた。
そのまま、身を乗り出すようにして―――唇を奪った。
乾いたキスだった。
ほんの一瞬だけ触れさせた唇を離して、その目を覗き込むようにしながら伝える。
「先生のことが、ずっと好きだった」