第3話
私たちは魔術薬学の研究でいくつかの魔術を使う。
最近2人で研究しているのは、氷術で薬草を加工するフリーズドライ製法の新薬開発分野だ。
私たちはほかにも、熱術で試薬を変質させたり、風術で薬剤を撹拌したり、雷術で電気反応を加えたりする。薬師の研究にはそういった魔術が必要不可欠なのだ。
だから、魔術が使えないというのははっきり言って死活問題なのだけど……。
リリィは黙って試験管を持つ。それは、フリーズドライ製法を試す予定の試薬だった。
その細くしなやかな指が試験管に当たる。
……何の反応も起きなかった。
「嘘でしょ?」
「氷術だけじゃないの。風術も、水術も……あと飛術も。急に……なんにも、できなくなったの」
リリィは涙を流し続ける。
ヒロインみたいに泣く子だなぁ、などと関係ないことを思ってしまった。
「魔術が使えなくなる例って……ないわけじゃないって聞くけど」
魔力発動の強弱や質感はメンタルに大きく左右される。意外とデリケートなものなのだ。
特に、強いショックを受けたり、普段と違う出来事に直面したりした直後は魔力が不安定になりやすいといわれているけれど……。
「あぁ……」
考えを巡らせているうちに、察してしまった。
リリィのメンタルを変容させる大きな出来事なら、まさに最近起きたばかりではないか。
(男女の関係を持った直後に魔術が使えなくなるなんて……)
それってなんだか、ヒロインみたいだ。ああ、この子はどうにもヒロインだ。
研究室の机に突っ伏したリリィは、憔悴した様子だった。
「私、このまま魔術……使えなくなっちゃうのかな」
「一時的なものだと思うけど。何日か休んでるうちに、回復するかもしれないし。少し様子を見てみたら?」
「魔術ができなかったら私、魔術薬師になれない……」
落ち込んでいるリリィは私の話を聞きやしない。
ふと顔を上げたリリィは、とんでもないことを言った。
「私、薬師になるのをあきらめて……先生のお嫁さんになる……」
カチンときた。
「何言ってんのよっ!!」
リリィの腕をグッと掴み、つい大声を出してしまった。リリィがビクリと身をすくめたけど、怒りを止められない。
「私たちは2人で魔術薬師になって、新薬作るんだって……」
そこまで言ったところで、リリィに怖がられていることにようやく気付く。
女友達のノリで触れてしまったけれど、腕を掴む力は男のそれだ。しかも、かなり強く握ってしまったはずだ。私は、やってはいけないことをした。
それでも、謝るのは癪だった。
「私たちは一緒に薬師になるの……」
そっと手を離して、つぶやく。
「でも……魔術が……」
リリィは、目を伏せたままだった。
薄暗い研究室を、重たい沈黙が支配した。
「……ごめん、ね」
リリィの涙声。
あとはパッと踵を返し、パタパタと走って去っていった。
☆
リリィが去った研究室。
苛立ちやモヤモヤは収まらないものの、私にはまだまだやらなきゃならない研究がある。
「……そうだ。あの試薬のテストだけ、先にやっとくか」
今が、それをする最後のチャンスかもしれない。後回しにしたまま機を逃したら悔やむかもしれない。間に合わなくなる前に……。
しんと静まり返った部屋。私が試薬をいじるカチャリ、カチャリという音だけが響く。
試薬にゆっくりゆっくり、時間をかけて氷の魔術をかけていく。一気に凍らせてはいけない。ゆっくり魔術を加えて水分を抜いていく。
実験に集中している時間だけは、嫌なことも全部忘れられる。
気づけば日はとっぷりと暮れていた。
研究に目処をつけた私は、研究室のビーカーを使ってホットの紅茶を淹れる。そのビーカーの隣に、フリーズドライ製法を応用して作ったラムネ菓子を1つ転がした。
花の香りのお茶をぐいと一口。疲れた体に、ほっこりとした温かみが広がっていく。それから、丸いラムネ菓子を口に放り込み、唾液でゆるゆると溶かす。
椅子の背もたれに体を預け、肺の奥から大きく息を吐いた。
「私は本当は……」
独白が口をつく。
「リリィが薬師を諦めるなら、それでも構わなくて。そんなこと、どうでもよくて」
小さな声のつぶやきは、研究室の淀んだ空気に溶けて、すぐに消えていく。
「これからもずっと一緒に研究をしていきたいとか、少しも思ってなくて……」
疲れた体が、勝手に独り言を紡いでいく。
「私はリリィのことも、あの医者のことも、大嫌い……」