20 迷子
ローゼリアが我に返った時、周りには木しかなかった。
小さな頃、庭遊びをしていた時に小さなヘビに噛まれて以来、ローゼリアはヘビが大の苦手だった。
深窓の令嬢として育てられたローゼリアはそれ以来ヘビを見る事は無かったが、子爵令嬢となり、エーヴェルトの畑仕事を手伝っている時に数回ヘビを見かけた事があった。その時もローゼリアは奇声とも言えるほどの叫び声を上げて、エーヴェルトを呆れさせたのだった。
「あのヘビは子爵領で見たヘビよりもずっと大きかったわ」
だから自分がああなってしまったのは仕方の無い事だ。そう続けたかったが、言い訳をしても状況が変わらない事にローゼリアは絶望的な気持ちになった。
夢中で走ってきたので、自分がどの方角からきたのかもわからない。朝日が差せば東の方角くらいはわかっただろうが、あいにくの曇天でローゼリアは天気にまで見放された気分だった。
「ここの森ってどのくらいの広さなのかしら?」
小さな森であったなら、歩いているうちに森を抜ける事が出来るだろうが、嫁いできたばかりのローゼリアは、屋敷の裏庭に森があったという認識しかしておらず、広さまでは分からない。
広さの分からない森で方向も分からない以上、下手に動くのはマズイ。仕方無くローゼリアは地面に腰を下ろして曲げた足を抱え込むように座った。
(今頃はきっとイアン様が伯爵家の護衛たちを連れて探してくれているわよね?)
イアンには好かれてはいないが、死んでもいい相手とまでは思われていないだろう。動き回るのは悪手と分かってはいてもつい考えてしまう。野生の獣に行き会ってしまうかもしれない森の中で助けがくるのを大人しく待つのと、自力で森を抜けられる事に賭けて歩くのではどちらが助かる可能性が高いのだろうか?
何もすることがなく座っているだけだと、つい色々な事を考えてしまう。
ローゼリアが王太子と婚約をしたのは7歳の時だったが、王太子と同年に生まれた以上ローゼリアは生まれた時から王太子妃になると思われていた。
婚約者になる前から王家はローゼリアの教育に口を挟んできていたので、ローゼリアの淑女教育は物心がつく前から始まっていた。
エルランド出身の母ナタリーは、事あるごとに王妃のお茶会に呼ばれ、ランゲル流という言葉を何度も浴びせられ、ランゲル国民の見本となるような淑女になるように育てよと言われていたらしい。母はローゼリアには何も言わなかったが、ヘンリックと婚約した後に母子で呼ばれたお茶会で王妃が母に嫌味を言う様子を見て、ローゼリアは母の苦労を知ったのだった。
王太子の婚約者なのにエルランドに3年も留学が出来たのは父のお陰だった。王家に忠実である事を良しとしていたのに、留学は短期間しか認めないと言ってきた王家にランゲルへの長期留学は長い目で見れば国益に繋がると主張して何とか3年の留学をもぎ取ってくれた。そして執務室で父とローゼリアしかいない時に、3年しか自由にしてあげられなくてすまない、と父はローゼリアに謝ってくれた。
兄のエーヴェルトはローゼリアと同じ母親似で王子様のような容姿だが、性格はエルランドで腹黒公爵と陰口を囁かれていた元ピオシュ公爵の祖父によく似ているらしく『お父様のような事を言わないでっ』と母によく言われていた。
ヘンリックは興味を持ってくれなかったが、元フォレスター領で麦の品種改良に力を入れていたのは兄だった。父が議会で糾弾されたあの日、ショックで何も出来なかったローゼリア達とは違い、兄は真っ先に父の執務室に置かれた麦の品種改良に関する資料を全て自分の部屋に移し、あの後すぐにやってきた王宮の文官や騎士たちの目から隠した。
子爵領に追いやられてからも食べる為の野菜や麦を育てながらも一人で研究を続けていた。
エルランドへ留学していた頃、周りに馴染めずに殻に閉じこもっていたローゼリアを助けてくれたのもエーヴェルトだった。ローゼリアの様子がおかしい事を察して数カ月間だがエーヴェルトもエルランドに留学をして一緒に学園に通ってくれた。
帰れないかもしれないと思って思い出すのは家族の事ばかりだった。もしこのまま誰にも見つけてもられなくても、ローゼリアの大切な家族はエルランドで安全に暮らしていると思えば、思い残すことはほとんどないのかもしれない。
「お父様、お母様、お兄様……せめて、もう一度お会いしたかったです」
ローゼリアは自分の膝を抱えたまま俯いて目を閉じた。
どれくらいそうしていたのかローゼリアは分からなかったが、一人でいたローゼリアにとってそれは長い時間に感じられた。
ふと微かに人の声が聞こえてきたような気がした。
幻聴かと思いつつもローゼリアは聞こえてくる音に集中した。
―――……ぇ、……………ははうえー
それは遠くに聞こえるイアンの声だった。ローゼリアはこれまで上げた事の無いほどの大きな声でイアンに呼びかける。
「ここです!私はここにいます!」
「どこにいますかー!ははうえー!」
「ここでーす!ここにいまーす!」
イアンの声が少しずつ近づいてくる。そしてはっきり聞こえてきたので、声のする方を見たら遠くにイアンの姿を見つける事が出来た。あちらもローゼリアに気付いたようで駆け寄って来る。
「やっと見つけました。怪我はしていませんか?」
「はいっ、大丈夫ですっ……」
そう言うとローゼリアは大きな瞳からぽろぽろと涙を流した。
「不安だったんですね」
手で涙をぬぐいながらローゼリアは頷く。
「ハンカチも何も持っていないんです。すみません」
そう言いながらイアンは気まずそうに自分の手をズボンでごしごしと拭く。ローゼリアの涙をぬぐってやるべきか迷っているようだった。
そんなイアンの様子に気付かないローゼリアは、手の甲を自分の目に押し付けながら首を横に振る。
「いいえっ、……来てくださって、……ありがとう、ございますっ」
イアンはローゼリアが落ち着くのを黙って待っていてくれた。
涙が止まらないローゼリアはしばらく泣いていたが、幾分か落ち着いてきたらしく、泣きながらイアンに話しかける。
「わたくしっ、イアン様の前ではっ…ヒック、しっぱいっ、ばかりですわっ……ヒック」
「いいですよもう……雨も降りそうだし、落ち着いたら帰りましょう」
ローゼリアは小さな子供のように頷いた。