2 なくなって欲しい婚約
ヘンリックの心の中の決断を知らないローゼリアは、彼が退室するのを待ってから応接室を出る。淑女教育のお陰で感情が表に出る事はないが、ローゼリアの心は疲弊していた。
(疲れたわ。国政に全く関心の無い人と話してもつまらない)
ローゼリアがお茶会の話題に国の事を選んでいたのは、国王から国の事に王太子が少しでも興味を持つようにとお茶会での話題を指定されていたからだった。
前回のお茶会ではローゼリアが留学していた隣国エルランドの政治の話、今回は国内の話題をして欲しいと王家の忠実なる家臣である父親を通して言われていたのだが、王子はどの話題にも全く関心を示さなかった。
国王は長い間子供に恵まれなかった。やっと生まれた王子を王は大切にしていたが、甘くも育てた。
子爵家出身の三番目の側妃から生まれた王子には、後ろ盾と呼ばれるような家は無い。
生まれた時期が遅かったので、王と同世代の父母を持つ高貴な血筋の令嬢たちの多くは彼よりも10歳近くも歳が上だった。そしてたまたまヘンリックより数カ月遅れて生まれたのが公爵家令嬢のローゼリアだった。だからローゼリアは生まれながらにヘンリックの婚約者になる事が決まっていた。
婚約者と正式に決まったのは二人が7歳の時だったが、それはローゼリアが将来の王妃としてふさわしいかを見極める期間と、他の高位貴族に女児が生まれた時にその娘と比べる為であったので、ローゼリアはヘンリックの妃候補である為に幼いながらに年齢に合わない厳格な淑女教育を王家からの希望により受けさせられてきた。
そして厳しく育てられてきたローゼリアと、甘く育てられたヘンリックとの能力差は歴然としていて、ヘンリックの分も補えるようにとローゼリアの教育は王家からの指示で苛烈となっていった。
幸いな事にローゼリアは優秀だったのと、幼い頃から寝る間も惜しんで必死に学んでいたことで14歳を迎える頃にはほとんどの課題を終わらせる事が出来て、王太子妃としていつでも王家に嫁げるように成長していた。
ここでようやく動いたのが公爵家だった。これまで従順なまでに王家に従っていた公爵が14歳で嫁がせるのは早い事、未来の王妃として他国を学ぶ事の必要性を主張して、公爵夫人の実家がある隣国のエルランドへの留学を強く希望してきたのだった。
3年間の留学というのは長いが、ローゼリアがその後の人生を王家に捧げる事を思うと、ひとときの期間でも自由に過ごさせてあげたいという親心からの申し出だった。
◆◆◆
王宮から公爵家に戻ったローゼリアは重いドレスからエルランドでも着ていた簡素なデイドレスに着替え、厚い化粧を落とす。先月の半ばまで隣国のエルランドに留学していたローゼリアにとって、白く塗りたくる自国の厚化粧と重いドレスは身に纏うだけで気鬱になりそうな存在だった。
ローゼリアは鏡に映った自分を見つめる。
ストレートに見える髪はコテで伸ばした上でオイルで仕上げたのでしっとりとしているが、本来のローゼリアの髪はふわふわのくせ毛だった。
ローゼリアの母親の出身であるエルランド国の王族や高位貴族の容姿の特徴は瞳が大きいところで、それがエルランドでは美しいとされている。しかしランゲル人は瞳が細い者が多く切れ長の瞳の形が好まれている。
母親がエルランドの高位貴族だったローゼリアは傾国の美姫とまで呼ばれた母親に似て瞳が大きいが、この国の王妃から前髪は長くして瞳を隠すようにと侍女を通して申しつけられていた。
前髪が長いと視界が狭く不便を強いられる上に、長くて量の多い前髪が彼女自身を暗くて重い印象に見せていた。
エルランドに留学する前までのローゼリアは、王妃や王宮侍女の指示に女性とはこういうものだと受け入れていたのだが、閉鎖的なランゲル王国よりも他国との交流も多いエルランドで3年も留学した事ですっかり考え方が変わってしまった。
夕食まではまだ少し時間があるので、侍女を下がらせたローゼリアは本棚から一冊の本を取り出し、ソファーに柔らかいクッションをいくつも置く。そしてソファーに寝っ転がって本を読み始めた。淑女としてはありえないその行動はマナー教師が見たらおそらく悲鳴をあげるだろう。
ローゼリアが読み始めたのはエルランド語で書かれた書物で、エルランド語の分からない者が見ると崇高な事や難しい事が書かれているように見えるような立派な装丁をしていたが、内容はエルランドで流行っている恋愛小説だった。
ランゲル王国で小説というと冒険物や歴史物ばかりの男性向けのものばかり書店に置かれていたが、エルランドではそれらに加えて女性向けの恋愛小説が最近多く出回っている。
そして貴族女性向きに書かれた恋愛小説であっても装丁は決して安っぽいつくりではなく、軽い内容に反して見た目は重々しく作られているので、一見すると難しい本を読んでいるように誤魔化せるのも人気のひとつだった。
「はあ~、いいなあ…婚約破棄」
ちょうどローゼリアが読んでいた小説は王子と平民の女性との身分違いの恋の物語で、王子の婚約者である悪役令嬢が婚約破棄される場面でついため息をついてしまった。
「でも、王族の寵愛を受けていても婚姻を結んでいない彼女はまだ平民なのよね。公爵令嬢が平民を少し虐めただけで王子から国外追放されるのはリアリティがないけれど、きっと大衆にはそういうのが好まれるのでしょうね」
ローゼリアは本をパタンと閉じて自身の癒しの時間を終わらせた。
自分の婚約者は王太子だが、物心ついた頃には将来の夫だと言われ、月に一度か二度のお茶会と婚約者として付き添う公務で顔を合わせるだけのヘンリックに対して何かしらの特別な気持ちはない。
お茶会での話題を提供するのはいつも自分。父や兄のようにローゼリアへの気遣いを感じさせる優しい言葉を掛けられることもない。身分の高い者として泰然と目の前にいる婚約者。嫌な事を言われる事は無いが、その逆も無い。
誕生日にプレゼントも贈られるが、会った時にプレゼントの事でお礼を伝えても何を送ったのか分かっていそうにない発言が何度かあった。
贈られた品にセンスの良さを感じてはいたので、侍従の誰かが選んだのだと察してはいたが、自筆のカードも付けない上に、自分が贈ったものを知らないのは呆れるばかりだった。
生まれながらの婚約者だったローゼリアにはヘンリックの妃以外の生き方は用意されていなかった。
フォレスター家の教育方針よりも王家の意向がいつも優先される。
殿下を大切にするようにと言われていたので、いつもヘンリックを優先していてそれが当たり前になっているが、ローゼリアの中でヘンリックへの愛情が育つ事は無かった。そしておそらくヘンリックも同じなのだろう。その事に今さら抗うかのように、ヘンリックはローゼリアが留学から帰る少し前から伯爵令嬢を側に置いている事をローゼリアは知っていた。
側妃を置く事にローゼリアは反対をするつもりが無かったのだが相手が悪い。ヘンリックが懇意にしている伯爵令嬢の家はローゼリアのフォレスター公爵家とは別の派閥で、その寄り親であるヴィルタ公爵家はフォレスター家と長年反目し合ってきた家だったのだから。
王妃と側妃が敵対派閥というのは政略的にある事なのだろうが、さすがにそれで父が黙っているとは思えない。
側妃を娶る事に寛容なローゼリアも妃同士での派閥争いはしたくはなかった。お互いに男児がいたら後々の継承権の争いにつながる。
「めんどうな事は嫌だわ。伯爵令嬢なら王家に迎えるのに問題は無いのだから、私とは穏便に婚約解消でもしてくれないかしら」
公爵家とはいっても令嬢でしかないローゼリアには周りを動かす力は無く、黙って状況を見守るしか無いので、心の中では毎日のようにあちらから婚約解消と言われる事を願っていた。