第18話 うふふ! おほほほほほ!
今世のセシルの母親である伯爵夫人が、真っ赤に泣き腫らした目で言った。
「もうおうちから出ないでちょうだい。わたくしを心配させないでちょうだい」
もう何度目かもわからないそんな台詞を聞いて、セシルは「はあ……」と曖昧に頷いた。
頭を撫でられながら、だ。
セシルはもう十七歳である。現代日本で言えば高校二年生だ。それが涙目の母親に頭を撫でられているというのは筆舌に尽くしがたい状況だ。
けれど、母親にとっては今が人生で一番の苦境なのだろうから、仕方がない。
娘は追放され、夫は処罰を受けて名誉に傷がつき、何より溺愛している息子が死にかけたというのだから、泣くなというほうが酷である。
セシルは息子としてしぶしぶお人形のように母親に甘えさせられているというか母親に甘えられているというか、という状況を受け入れていた。
セシルに二十三歳の成人男性としての記憶があってよかった。親の気持ちを慮ることができる。ただの十七歳だったらまだまだ思春期なので、母親に大いなる反発心を抱いたに違いない。
セシルの母親は愛情深い人で、普段から情緒が豊かだ。たまにちょっと感情的すぎると感じる時もあるが、基本的にはいつもご機嫌で、どちらかといえば陽気な女性である。社交界で宰相夫人としてパーティの女主人役をこなすこともあり、人前はもっとちゃんとしっかりしている。一刻も早く自分を取り戻してほしいが、昨日の今日ではさすがに無理か。
城門前の広場でセシルが斬られてから、丸一日が経過した。
傷は完全にふさがったが、軽い頭重感と目眩があったので、念のためにと医者に診てもらった。
特に問題はなさそうだから、貧血であろう、という診断がくだり、念のために一週間程度安静にすることになった。
しかし持病のない十七歳の男子の骨髄は元気なもので、食事と睡眠をたっぷりとったセシルは本日すでに全快していた。
ところが過保護な母親がきちんと寝ていてほしいと言うので、やむをえず自室のベッドの上でごろごろしている。
そこを母親が一、二時間おきに様子を見に来るわけだ。
め、めんどくさ、と思ってはいるが、セシルには母親を突き放せない理由がもうひとつある。
前世の母親は、どうなったのだろう。
前世のセシルの母親は、物静かで忍耐強い人だった。重い病を患う娘のために、毎日長い時間をかけて大きな荷物を持って病院と自宅を往復していた。それでも決して声を荒げず、この人には感情などないのではないか、と思うくらいに落ち着いた人だった。
彼女が泣いたところを見たのは、ありすの葬式が最初で最後だった。
あの後、数日中に前世のセシルは身を投げた。彼女は短期間に息子と娘を立て続けに失ったことになる。一週間以内に我が子が全滅したのだ。
転生したことに気づいてもうすぐ半年になる。
この間で冷静になった今だから言えるが、前世のセシルはいわゆるきょうだい児というやつだった。
前世のセシルは、前世の母親が前世のセシルにほとんど関心がないかのように振る舞うことを全面的に受け入れ、彼女の中での息子は存在感が薄いと決めつけてしまったようである。
でなかったら自死しようなどと思うだろうか。
しかし母親は母親で娘の看病でせいいっぱいで、どうしても健康なほうの息子に手を割けなかっただけで、べつに愛情がなかったわけではなかったのかもしれない、と思うと――。
そんなことを考えながら現在である。
血まみれで帰ってきたセシルを見て文字どおり倒れ、以来泣き続ける今の母親を見ていると、孝行しなければな、と思う。
前世の母親と今世の母親は似ても似つかない。
前世の母親は白髪だらけの頭でがりがりにやせていた。だが、今世の母はつやつやと輝くハニーブロンドで豊満な肢体をしている。しかも、この世界での女性は二十歳前後で結婚してすぐ子供を産むのが普通なので、彼女もまだ三十八歳と高校生の息子がいるわりに若い。
それでもセシルはなんとなく二人の間に共通点を感じ取って、しゅん、としてしまうのであった。
ドアをノックする音が聞こえてきた。
「坊ちゃま、奥様」
母の身の回りの世話をする侍女頭の声である。
「お客様がお見えです」
「あら、どなたかしら」
母が立ち上がり、内側からドアを開けた。お仕着せ姿の侍女頭が冷静な顔で軽く会釈をする。
「ヴァルトラウト様が坊ちゃまにお会いしたいとおっしゃられて、お見えになっております」
「まあああ」
もしも音声に形があったら、今の母の台詞は丸い。
「今まだ玄関でお待ちいただいておりますが――」
「すぐここにお連れしてちょうだい!」
「すぐ!? 僕の部屋に!?」
セシルは慌てて立ち上がった。
「嫌だよ、こんな、ぐちゃぐちゃのベッドに寝間着姿のままで」
「いや~ねぇ、かっこつけて」
さっきとは打って変わってご機嫌そうな顔でばしばしとセシルの肩を叩いた。
「ヴァルトラウト嬢も事件現場に居合わせたのでしょう? 体調が悪いのはご存じよ」
「まあそうだけどさ……いやぜんぜん元気だけどさ」
「ヴァルトラウト嬢が! お見舞いに来てくださったのよおおお」
母が軽い足取りでドアのほうに向かっていく。
「いやだわ! いやだわ! 女の子がうちの息子のお見舞いだなんて! うふふ!」
侍女頭が笑いを噛み殺している。
「ヒルデリア産の紅茶を用意なさい! あとフィナンシェを焼くのよ!」
「はい、かしこまりました奥様」
嬉しそうな様子だ。
この間まで娘がヴァルトラウトのせいで追放されると言ってヴァルトラウトを敵対視していたというのに、セシルとヴァルトラウトの城門前広場でのやり取りを聞いた途端この手の平返しだ。
うちの母親、ちょろい。
「じゃ、うまくやるのよ」
「何をだよ」
「おほほほほほ!」
スキップするような足取りでドアのほうに向かって、出ていく、かと思いきや、くるりと振り返り、にんまりと笑い――
「お父様を通じて国王陛下に話をさせていただきましょう」
「何の!?」
ようやく出ていった。
とはいえさすがのセシルもわかる。彼女は今息子のカノジョが息子の見舞いに来たと思い込んで浮かれポンチになったのだろう。とんでもない話だ。セシルが小学生だったらうるせーババアと怒鳴るところかもしれないが、十七歳の魔法学園五年生は紳士たるべきなのでぐっとこらえる。
ヴァルトラウトとはそういう関係ではない。確かに二人きりで密にやり取りすることも多く、辺境領のパーティでは一緒にダンスをし、城門前広場では抱擁を交わして無事を確かめ合ったが――あれ? これは結構いちゃいちゃしているのでは。
困ったことになった。お互い転生者で物語の進め方について議論をする必要があったからやり取りを重ねていただけであり、確かにきずなのようなものはあるかもしれないが恋愛感情ではない。と思う。たぶん。
あのご機嫌な母を放っておいて良いことはない。夫であるセシルの父にあることないこと吹き込みそうだ。そしてセシルの父であるカーティヤ伯爵は宰相でありフレデリク王の寵臣だ。一瞬で国家規模のホットニュースになりかねない。
なんとかして止めなければ、と思う気持ちとは裏腹に、元気を出してくれたのならいいや、と思う気持ちも湧いてくる。
そういえば、前世のセシルの母親にはそういう話題を提供したことがなかった。
息子が青春をしている姿を見せることは親孝行でもあるのだな、としみじみしてしまう――がそんなことは十七歳の今世のセシルが考える必要はない。
とにかく、先回りしてヴァルトラウトにうちの母親が誤解していることを伝えなければ。あの聡明で冷静沈着なヴァルトラウトならいい案が浮かぶかもしれないし、最悪変な噂が流れても落ち着いて対処してくれるだろう。そう信じる。




