第16話 セシルの死亡フラグ 1
エルンストと対話をした翌日に、アリスとエルンストが王都から出ていく時が来た。
玄関ホールでアリスと最後の別れの挨拶をする。
「皆さん、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
真面目な顔でそう言って頭を下げたアリスに、気の強い使用人の女が「ほんとよねえ」と投げつける。セシルはそいつの顔と名前を記憶した。自分がこの屋敷の主人になったら真っ先に辞めさせてやろうと思った。
兄妹の母である伯爵夫人が泣き崩れる。父である伯爵がそんな妻のそばにしゃがみ込んで、彼女の肩を抱く。
一方セシルは比較的落ち着いていた。
前世の妹のありすが入院する時のようなさみしさや心配はあったが、ヴァルトラウトが言ったことがすべて真実なら、またいつか生きて会えると確信していた。
アリスにはきついお灸が必要だ。つらいが、これがアリスのためなのだ。自分もアリスと距離を置いて自分自身の人生を見つめ直さなければならない。これは必要な措置であり一時的な別離なのだ。
それを知らなかったらセシルもパニックを起こしてアリスを殺して自分も死ぬなどと言いかねなかったと思う。本当の本当に、ヴァルトラウトとちゃんと会話してよかった。
人生は何事も会話だな、とセシルは思う。エルンストとも会話ができたからわだかまりがなくなった。
むしろ――
「それでは、ごきげんよう」
そう言って出ていくアリスの華奢な背中を見て、思う。
アリスとはまた会えるが、エルンストとふたたび会える保証はない。
アリスは安全な修道院に入るが、エルンストは危険な紛争地帯に行く。
アリスは未来永劫兄妹だが、エルンストとはもう主従関係が解消された。
きついのは、エルンストとのことのほうだった。
もう一度エルンストに会いたい、と思った。エルンストの顔を見たい。エルンストに何かを言わなければならない。何を言うべきかはわからないけれど――たとえばあなたの恋人は僕が守りますとか? 彼女はもう北ビュルトブルクに行ってしまうのに?
自分の無力さに絶望しそうになる。
でも、と自分を奮い立たせた。
今までの自分の地道な努力が実を結んで、現実の展開が少しずつ変わっていった。なにせアリスは魔獣の跋扈する辺境ではなく勉強に専念できる修道院に行くのだ。それもこれもセシルが動いた結果ではないのか。
エルンストも救いたい。アリスの未来が変わったように、エルンストの未来も変えたい。
セシルは、一歩を踏み出した。
「セシル?」
母が背後で名を呼ぶ。
「ちょっと、セシル! どこに行くの!」
「殿下にご挨拶します」
「何を言っているの! エルンスト殿下はもう王太子ではないのよ、あなたがお仕えするべき相手ではないの! 放っておきなさい!」
母は転生者ではないが、女の勘のようなものがあるのかもしれない。たった今娘を失った――と思い込んでいる――ところゆえの不安もあるのだろう。普段から感情の豊かな人ではあるが、今日はとびっきりの金切り声を上げている。
「ごめんなさい、母上」
そういえば、前世のセシルの母はどうなっただろう、ということをいまさらになって考えた。前世の記憶を取り戻して以来初めて前世の母のことを思い出した。
セシルには、まだまだ、考えなければならないことがある。
でも、今は、一歩ずつ、ひとつずつ。
セシルは走った。
目指すは王都の城門だ。
間に合えば旅立つエルンストに追いつく。
間に合わせる。
間に合え。
王都はほぼ円形の都市で、丸い城壁にぐるりと囲まれている。といっても大昔、まだこの街が都でなかった頃の名残なので、壁の中の面積が都の規模に合っていない、狭い範囲を包んでいる壁だ。この周りにもさらに大きな輪のような城壁がふたつあって、王都は三重の壁に囲まれていることになる。
王都の一番内側の壁の規模は、現代日本で使われているメートル法に換算すると、だいたい直径三キロ弱くらいである。そして、王城および伯爵家の屋敷は円の中心あたりにある。したがって十七歳の健康な男子であるセシルならば、自前の足で走ってもたいした時間はかからない。
城壁には門が東西南北の四ヵ所あるが、東ヒルデリアに向かうのであれば常識的に考えて東の門を使う。
東のほうに向かって走っていくと、門の周りに人だかりができていた。間に体を差し入れていって周りに聞き耳を立てたところ、みんなエルンストとアリスの旅立ちを見物しに来た一般市民らしい。
「すみません、通してください」
人波を掻き分け、なんとか前に進んでいく。周りの人々の顰蹙を買いつつ、少しずつ門のほうに向かう。
やっと広い空間に出た。
門の前にエルンストとアリスが立っていた。
小声で何かをささやき合い、最後の抱擁を交わす恋人たちに、市民がごみを投げつけている。
胸が張り裂けそうだ。
二人の邪魔をしてはいけないような気もしてきた。
セシルが声を掛けなくても、二人のこの時間はそんなに長くは続かない。周りには王子の元従者たちがたくさんいて、二人に対してもの言いたげな目をしている。
時間が許す限り二人の世界を味わわせてあげたほうがいいのではないか。
エルンストとは今生の別れかもしれないのだ。
しかし――立ち止まったセシルの目に、民衆の間からちらつく鈍い銀の光が留まった。
目を丸く見開いた。
一般人と思われる痩せた中年の男が、手に抜き身の短剣を持っている。
みんな彼の短剣に気づいていないようだった。
ここに集まってきたのはもとから計画的に集められた観衆ではなく自然と集まってきた野次馬で、兵士がきちんと持ち物検査をしたわけではないのだろう。エルンストとアリスの周りの兵士たちも、二人のことしか見ていない。
セシルの体は自然と動いた。
あの短剣は危険だ。取り上げなければならない。
男が、一歩、二歩と、門のほう、二人のほうに向かって、歩き出した。その足はやがて駆け足となった。
ようやく短剣の存在に気づいた民衆が悲鳴を上げた。
セシルも二人のほうに向かって走り出した。
「死ね!!」
男が叫び声を上げながら短剣を振りかざす。
「税金で暮らしてたくせにちゃらちゃら女といちゃいちゃしやがって!!」
兵士たちや従者たちの反応が、ワンテンポ遅い。
ああ、それは、わかる。
セシルはスローモーションになっていく周囲の光景を見ながら、今まさに殺人の罪を犯そうとしている暴漢に共感の思いを寄せた。
僕も、ついこの間まで、税金で暮らしているくせに民衆のために働かないなんて、って思っていたよ。
アリスが悲鳴を上げてエルンストに抱きついた。エルンストがアリスを抱き締めた。
そんな二人の前に、セシルは、飛び出した。
他の方法が思いつかなかった。
なんとかして、二人を、守らなければ。
それで頭がいっぱいだった。
二人の前に、両手を広げて立った。
左胸から右の脇腹にかけて、強い衝撃を受けた。
少し遅れてから、熱い痛みが襲いかかってきた。
「……っ」
声にならない悲鳴を漏らした。
赤い液体が流れる。
短剣がからりと音を立てて石畳の上に落ちる。
大勢の人間がパニックを起こしている。
強い立ちくらみがした。
セシルはその場に倒れた。




