5-6 【やってること恋人と一緒では?】
その夜、黒金の獅子団の後始末を終えてから、僕は喫茶バフォメットの前を通りかかった。
「……?」
喫茶店の二階から、呪いの波動はもう感じられない。ひとまず、元凶を討伐したことで呪いを打ち消すことには成功したようだ。それが確認できたので、そのまま通り過ぎて帰路に着くつもりだったが、喫茶店の入り口の扉が開けっ放しになっているのが見えた。
「……誰か、いる?」
アヤメさんたちが慌てて戻ってきて閉め忘れたとかなら良いのだが、そのまま寝てしまったとかだとしたら不用心だ。入り口から中を覗くと、カウンター席の端、一つだけ点けられた電球の光に照らされた、アヤメさんの後ろ姿が見えた。
「……勇者様、いつまでもそんな格好では風邪を引きますよ」
「……ッ!?」
入り口から声をかけると、アヤメさんは椅子から飛び上がった。その拍子にカウンターに腿をぶつけたようだが、幸いテーブルの上にあるグラスは倒れずに済んだようだった。
「あ、すみません……」
まだ狼女の衣装のままだったようで、その背中は少し震えているような気がした。ただルリさんの、魔族の魔力はその衣装からは感じられない。崩壊もしておらず、衣装の魔力を抑える調整がもうできるようになったようだ。相変わらず、成長が早い。
「……ラノ君」
アヤメさんは座ったままくるりと椅子を回し振り返ると、衣装の胸元を引っ張って整える。
「……もう、名前では呼んでくれないのね」
「……」
フォーボスの首をアヤメさんが聖剣で刎ねようとした時、僕はうっかり彼女のことを、名前で呼んでしまった。
「……すみません。さっきは戦闘中で、油断していました」
「……私は嬉しかったけど」
アヤメさんはカウンターのほうに向き直ると、グラスに注がれた赤ワインを一気に飲み干した。
「……勇者様は、もう少し畏怖の念を抱かれるべきです。底なしの善性は時に、より多くの敵を作る可能性がある。純粋な悪人よりも、疎まれ、舐められる危険性がある」
僕はなるべく、強い口調で続ける。
「だからこそ……あなたが女神に選ばれた、召喚された勇者様であることを、もっと知らしめる必要があります。……黒金の獅子団の件といい、この町の人間は、この世界の救世主への礼儀を忘れかけている」
「…………じゃあ、二人きりのときは?」
「え?」
アヤメさんはカウンターにグラスを置くと、顔だけをこちらに向けた。
「それって他に人がいないときは、名前で呼んでくれるってことよね?」
「……」
「……」
「……アヤメさん、酔ってはいませんよね?」
昨日、トリカブトバーガーを食べたときのような乱心は見られない。もし酔ってるなら、明日にはこの会話も忘れてくれそうだが……。まあ、最後くらい良いか?
「私、一度飲んだことがあるお酒では酔わない体質なのよ。だからもう、トリカブトガニ食べても昨日みたいにはならないから」
「……そうですか」
なんだその特技。一度見ただけで完璧に魔法を覚える才能と何か関係が……いや、絶対関係ないよな。
「ラノ君も一杯どう? もちろんお店のじゃなくて私が買ったやつだから、お代は結構よ」
アヤメさんは席を立つと、カウンターに置かれている酒瓶を手に取った。
「いえ、僕はこれで失礼します。マスターの旦那さんの容態が気になっただけですので。この様子だと、呪いは消えたようですね」
マスターの旦那さんに呪いをかけた犯人、黒金の獅子団のリーダーはその呪いごと消滅した。これで呪いの進行は止まったはずだが、容態が回復するかどうかは何とも言えなかった。
「ええ。ちゃんと目を覚ましたみたいよ。さっきまで起きてたけど、安心したマスターと一緒にもう寝ちゃったみたい。ルリも……思ったより魔力を取られてたらしくて、シャワー浴びたらすぐ布団に潜っちゃった」
「それは良かった。……アヤメさんも、早くお休みになられたほうがよろしいかと。明日から学校ですから」
アヤメさんに背を向け、その場から立ち去ろうとする僕を彼女が呼び止める。
「……ラノ君は、眠れるの? 彼を……人の命を、奪ったのに」
僕は振り向くことができないまま、彼女の問いに答える。やはり彼女がいた世界は、ここより人が死なない世界だったようだ。
「あれはもう、人ではなかった。それにあのまま生かしておけば、より多くの人間が呪いに蝕まれ命を奪われることになる。……マスターの旦那さんも、近いうちに死ぬことになっていたはずです」
「……」
「ですが、あなたの手を煩わせるつもりはありませんでした。僕が未熟なばかりに、申し訳ありません」
僕は振り返り、アヤメさんに頭を下げる。
「今までありがとうございました。次は魔王にならない恋人候補を捕まえられますように、祈っています」
「それ……女神様から聞いたの?」
「……はい」
僕は下を向いたまま答える。
「…………ラノ君、こっちを見て」
アヤメさんは僕の顔を挟むように両手を添えると、下げていた僕の頭を無理矢理上げさせた。頬を押さえられ、口が上手く動かせない。
「ゆ、勇者しゃま?」
「……」
「……あ、アヤメしゃん! 離してくだしゃい」
「ラノ君は、魔王になるつもり?」
アヤメさんが、静かに問う。
「……いえ、べちゅ……別に」
「ラノ君、嘘つきね」
「え?」
「ごめんなさい、私も女神様から聞いたのよ。ラノ君の過去」
「……」
「私だったら、耐えられないって思った。そんな目にあったら、私だったら魔王になってるかもしれないって思った。でもラノ君には、魔王になってほしくない」
「……そうでしたか」
「私が勇者だからとかじゃなくて……これは、私の願い」
アヤメさんは僕の頬から手を離すと、今度は両手で僕の手を包み込むように握った。
「……」
勇者としてではなく、アヤメさん自身の願い、か。本当に、彼女は成長が早い。そして……ずるい。
「わかりました。僕の容疑は、まだ晴れないということですね。しかし、僕が魔王にならない証明なんてどうしたものか……」
「ゆっくり考えてくれたら良いわよ。その間私は、ラノ君と一緒にいられるわけだし」
「……」
よくもそんなに恥ずかしいセリフがぽんぽん出てくるものだ。やっぱり、本当は酔ってたりして……?
「そういうわけだから、今夜は眠くなるまで付き合ってよ。千年魔書魔炉に入れば、眠くなってからたっぷり寝ても、外の世界は全然時間が経ってないんでしょ?」
確かに千年魔書魔炉の中で一日寝ても、外の世界では一秒も経っていない。たまに僕もやってる使い方だ。
「それはそうですが、まさか一人で入るおつもりですか? 一人でちゃんと脱出できないと、千年出られませんよ?」
「ラノ君と一緒に入るに決まってるでしょ」
「いやでも、僕かなり寝ますよ? それに起きてすぐは、布団の中でダラダラしたいですし……」
「じゃあ起きるまで待ってるし、起きたら一緒にダラダラすればいいじゃない」
「……」
「…………お願い。今夜だけは、あいつの感触を忘れさせて」
フォーボスのことを出されてしまうと、僕はもう何も言えなくなる。人の首を刎ねる感覚をアヤメさんに味合わせてしまったのは、僕の不手際だ。
「……それは、命令ですか?」
でも可能な限り、抗ってみる。僕はきっと、めんどくさい男だ。
「ラノ君って、意外とずるいよね」
「……アヤメさんほどでは」
「ふーん。ま、いいわ。……そう、これは勇者様の命令よ」
アヤメさんは僕の手を離し、代わりに一歩こちらに踏み出す。明らかに酔ってなどいない、凛とした眼差し。僕はきっと、この瞳に弱い。魅了を妨害する仮面をつけていれば、僕はちゃんと断れていたのだろうか。
「……わかりました。アヤメさんの、意志のままに」
「ありがとラノ君、ご協力感謝するわ。……じゃあ、私シャワー浴びてくるから、準備して待ってて?」
安心して気が抜けると同時に魔力を制御する力も抜けたのか、アヤメさんは剥がれ始めた狼女の衣装を押さえながら店の奥へと駆けて行った。
「……」
僕だけになった薄暗い店のカウンター席に座り込み、僕は天を仰ぐ。
「……これ、やってること恋人と一緒では?」