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第6話 彼氏と恋人(1)

挿絵(By みてみん)

姫奈(ひな)っ。……姫奈ってば」


 肩を叩かれて、姫奈はハッと我に返った。慌てて動かした腕がテーブルにぶつかり、飲みかけのカプチーノが揺れる。


 姫奈の肩に手を置いたまま、美空(みく)が心配そうに顔を覗き込んでいる。


「あ、美空……。ごめん……」


 姫奈は照れ笑いでごまかす。久しぶりに親友の美空とお茶を楽しんでいたはずなのに、つい考え事をしてしまっていた。


「姫奈はそんなにかわいく変わったんだからさぁ。もっとニコニコしてなよ。もったいないよ」


 美空は姫奈の肩をポンポンと叩く。


 姫奈がエルに出会えたことを、美空は大いに喜んでくれている。なにせこれまで服装も髪型も全くの無頓着だった姫奈が、見違えるほどにかわいい外見に生まれ変わったのだ。長らく姫奈を見てきた美空には、姫奈が本気のファッションをすると絶対にかわいいはずという確信がずっとあった。それが間違いではなかったことで、美空はますます応援したくなっている。


「何かマトリアルカの仕事で、失敗でもしたの?」


「え……、あ、うん、ちょっと、ミスかな……」


 美空に問われて、姫奈はうつむきながら頬を指で掻いた。


 つい考え込んでしまったのは、二日前にマヒルに失礼なことを言ってしまったことだった。あれからマヒルは出張で不在で、きちんと謝れていない。


 そのことが気に掛かるたび、あの夜にエルに辱めを受けて悶え続けていたマヒルの姿が脳裏にちらついてしまう。なぜ彼のことばかり頭から離れないのか、全く分からない。


 美空にはマトリアルカの真鳳(まとり)エル社長のもとで働き始めたことは伝えている。しかし、エルと同居することになったこと、そこには男性のマヒルもいることなど、他のことは伝えられていない。これまで姫奈を男の目から守ってきてくれた正義感の強い美空がそのことを知ったら、エルの家に殴り込みに来てしまうかもしれない。迂闊に言い出せない。


 美空は、思わぬ質問をしてきた。


「マトリアルカってさぁ、私も働けるのかなあ?」


「え……?」


「え、って?」


「いや、だって、美空、マトリアルカ興味ないでしょ?」


 姫奈は思わず問い返す。


 美空は姫奈が長らくマトリアルカの大ファンであることは知っていて、先日も真鳳エル社長が出演するイベントに一緒について来てはくれたが、美空自身はマトリアルカには全く興味を示さなかった。


 美空はテレビっ子で、しかも次から次に売り出される男性アイドルグループが大好きだ。だから、テレビでほとんど取り上げられることがなく、しかも女性による発信メディアであるマトリアルカには無関心だったのである。


 とたんに顔を赤らめた美空は、なぜか慌てている。


「あ、いや、ほら、この前の真鳳社長の話を聞いて、同感できることも多かったしね……。それに、姫奈のこと心配だから、同じ職場だったら一緒にいてあげられるかなぁ、なんて」


「ふふ、美空がマトリアルカに興味を持ってくれただけでも嬉しいよ」


 姫奈はクスッと微笑んだ。美空は照れ隠しで、カヌレを頬張る。


 もぐもぐと口を動かしている美空の顔を、姫奈はまじまじと見る。


「なによ、姫奈」


「私は直接誘われて採用されたから、マトリアルカの入社の方法はよく分かんないんだけど、美空ならオーディションから行けると思うの」


「オーディション?」


「うん。動画の出演者たちはオーディションで所属が決まるの。外見や知性も問われるかなり厳しい審査っていう噂だけど、美空だったらいいと思うんだよね」


「へー、外見と知性ね。まあ、余裕でしょ」


 美空は無邪気にピースサインをして見せる。


 以前までの根暗な姫奈とは真逆で、美空は明るくファッショナブルだ。男性アイドルが好きすぎて現実の周囲の男子に全く興味がないから出会いもないようだが、美空の贔屓目を除外してもかなりの美少女と言える。


 露出多めのファッションから見せる美しい肌、元空手部の引き締まったスタイルの良さ。均整のとれた笑顔に、チャームポイントの泣きぼくろ。美空のかわいさは、美人揃いのマトリアルカの所属キャストの中でも遜色ないのではないか。加えてこの明るさ、気遣いの心、自分のかわいさを自認するポジティブさ。とってもキャスト向きである、と姫奈は感じる。


「マトリアルカのオーディション、受けてみればいいのに」


「オーディション、かぁ……」


 美空は興味があるような、ないような、そんな微妙な雰囲気を出しながらつぶやく。何かを悟られたくないのは見え見えだ。


 だが姫奈にとっては、これまでずっと仲良くしてくれていたのに共通の話題がほとんどなかった美空が、姫奈の好きなマトリアルカのことに自分から歩み寄ってくれたことを、とても嬉しく思う。


 それだけに姫奈は、エルとの関係、エルの秘密、そしてマヒルとの同居のことは、美空にも言い出せないでいた。




 夕焼けに染まる首都高速を、車は走る。


 姫奈は助手席から、運転中のエルの横顔をぼんやりと眺める。


 この日はエルの講演会だった。個人事業主や起業志望者など女性ばかりが100名以上集まった会場で、エルは自らの理念や思想を壇上から熱弁し、拍手喝采を受けた。名刺交換を求める長い行列ができたが、エルは1時間以上をかけて笑顔で全てに応じた。


 姫奈は大学の授業を終えると、エルのアシスタントとして会場に駆けつけた。エルのために水を用意したり、鞄を持ったりもしたが、エルは大抵のことは自分で済ませてしまい、姫奈には大して仕事がない。受講者の横で壇上のエルの話をしっかりと聞いていたので、自分の勉強にはなったが、果たしてアシスタントとして働けているのかどうか。


「姫奈、どうしたの?」


 エルは運転に専念して前を見ながらも、助手席からの姫奈の視線を感じて聞いた。


「あ……。エルさん、講演でお疲れなのに、運転させてしまって……すみません……」


「何言ってるの。気にしなくていいのに、そんなこと」


「だって、私、何も仕事してなくて。今も助手席に乗ってるだけで……」


「姫奈が横にいてくれるだけで、私は嬉しくてヤル気がみなぎるんだから、それでいいの。そういうのも、意味のある仕事だと思うけどな」


 エルは視線こそ向けないが、エルのいたわりの気持ちが聞けて、姫奈は幸せな気持ちが込み上げて、ニヤけてしまう。


「でも……、私も免許取ろうかな……」


「そうね、運転免許はあったほうがいいわ。うちのクライアントの自動車教習所は女性教官を指名できるから、そこで取ったら?」


「そうなんですか?」


「うん。以前に私がコンサルに入った時に、女性指導員の指名制を提案したんだよね。姫奈みたいに、男性が苦手という女性も多いと思ったから。そして私も、そこで免許取ったの」


「え、じゃあ私もそこで……」


「それがいいわ。そこで姫奈が免許取ってくれるなら、マトリアルカとしてもクライアントへのアフターフォローになるしね」


「じゃあ、すぐに取ります」


 姫奈はすぐに決意できた。確かに以前に美空が運転免許を取る時、自分も一緒にとは思ったものの、男性指導員と車の中で二人きりになり叱責されるイメージが頭によぎって、自分には一生無理だと諦めたことがあった。


 エルは極度の男性恐怖症に苦しむ自分のような女性にも生きやすい世の中を着々と作ってくれているんだ、と姫奈は感じた。改めてエルの凄さを痛感し、いっそう恋焦がれる気持ちが深まっていく。


「あ、姫奈。マヒルくんは明日出張から帰ってくるよね」


 エルが突然マヒルを名前を出したことで、エルにうっとりしていた姫奈はドキッとして一瞬で現実に戻される。なぜ今の話の流れで、マヒルの名前がエルの口から出てくるのか。 


「マヒルくん……? あ、いや、天川あまのがわさん……」


「いいよ、マヒルくんで。一緒に住んでるんだし」


「どうしてマヒルくんの話なんですか」


「免許の話で思い出しちゃって。私が免許取ったのは、実はマヒルくんの影響なんだよね」


「え……?」


「以前にね、マヒルくんとスペインに出張に行ったことがあって。彼って、なんかこう頼りない感じがするじゃない?」


「まぁ……、はい」


「でも彼、向こうに着くなりレンタカー借りてあちこち各地へアテンドしてくれてね。スペインでひまわり畑の中を幸せそうに運転する彼を助手席から見てたら、自分で運転するのも確かにいいかもなあって思って」


 エルの説明を聞いて、姫奈の頭の中はスペインの広大な大地のイメージが映し出されていく。一面黄色のひまわり畑の中、地平線にまで伸びる長い直線道路を、二人を乗せた自動車が走っていく。とても幸せそうな風景。


 そこに、先日の夜の淫靡な情景がフラッシュバックする。両手首を拘束されて横たわり、発情するエルになすがままに犯されて悶え続けるマヒルのあの姿。二人きりで海外出張をしたということは、エルとマヒルはあんな行為を現地のホテルで夜な夜な続けたのではないか。


「あの……、エルさんっ」


「ん、なに?」


「エルさんは、マヒルくんと付き合ってるんですか」


 姫奈はずっと心に渦巻いていた疑問を、ついにエルにぶつけた。



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