第5話 悪夢と悪罵(2)
姫奈はハッと目を覚ました。窓から差し込む、朝の陽差し。
気づくと、一糸纏わぬ姿でクイーンベッドに横たわっていた。昨夜の悪夢の部屋だ。慌てて見渡すと、エルの姿もマヒルの姿もない。
枕元に、昨夜エルにむしり取られた服や下着が畳んで置かれてあった。またもエルが畳んだのだろうか。すぐに着て部屋を飛び出す。
リビングから、出汁の匂いが漂う。行ってみると、ダイニングテーブルに朝食の用意がしてあった。
アイランドキッチンで味噌汁を作っていたのは、スーツ姿のマヒルだった。エルの姿はどこにもない。
姫奈は昨夜の悪夢を一気に思い出す。いきなり裸体を見せつけられ、エルが彼をいじめ立てる行為を終始観察させられ、エルに愛してもらったのはその混乱の後だった。この男への複雑な感情が湧き起こる。
姫奈が何か言い出そうとした時、先にマヒルが挨拶の言葉を発した。
「おはようございます」
「あ……、おはよう……。エ、エルさんは……」
姫奈はつい言葉を返してしまう。
「もう出勤されました。朝食を用意したので、よかったら大学に行く前にどうぞ」
マヒルは一膳並べ終えると、椅子を引いて勧め、再びキッチンに立つ。姫奈はそろりとダイニングチェアに着席して箸を取った。
練り物をおかずにした和食。一口味噌汁をすすると、温かさが全身を巡り、少しずつ心が落ち着いてくる。
マヒルはキッチンで姫奈に背を向けて立っている。今日の仕事に必要な資料の用意をしているようだが、こちらに顔を見せないのは男性恐怖症の姫奈に対して気を遣っているのだろう。
まだ分からないことが多すぎる。本当にこのマヒルという男性は、ここでエルと一緒に住んでいるのだろうか。本当にエルに飼い慣らされているのだろうか。そして、この男性はエルの恋人なんだろうか。
どうしても恋人には考えられない。どう見ても男性としては普通だ。身長も極めて普通で、長身のエルとさほどの差もない。昨日裸体を見せられたが、特段筋肉質というわけでもなかった。仕事はできる男だとエルは言っていたが、それ以外には何も特質すべき良さも見当たらない。どう考えても、完全無欠の麗人であるエルと釣り合わない。
マヒルの後ろ姿を見ていると、そんないろいろなことを考えてしまい、余計に気になってしまう。
「マヒルくん」
姫奈はつい彼を呼んだ。すぐにハッと我に返る。
何か用があるわけでもないのに、男性に名を呼ぶなんて。しかも年上のはずなのに、無意識に「くん」付けで呼んでしまっている。エルがそう呼んでいたからなのか、童顔で同い年ぐらいに見えるからなのか。
「はい」
マヒルが振り向いて応えた。夜空のような黒さの瞳と目が合い、姫奈はとっさに視線を外してうつむく。呼びかけたのはいいが、何も話題はない。あたふたしながら、何とか言葉を組み立てる。
「あの……。よかったら……そのお仕事、こちらのテーブルに……座ってどうぞ……」
「ここで大丈夫です」
「いや、いいから……」
「すぐ済むので、お気遣いなく」
「……いいからっ!」
姫奈はなぜかイラッとしてダイニングテーブルをパンッと叩いてしまった。マヒルは目を丸くしている。うろたえる姫奈。
「あ……。だって……、前にお尻を向けて立たれると、私、気になるし……」
「すみません。ではお言葉に甘えます」
マヒルは小さく頭を下げると、姫奈の斜向かいに着席して、テーブルに書類を置いて確認したりタブレットに何かを入力したりしている。
姫奈は朝食を口に運びながら、横目でチラチラとマヒルを見てしまう。そして、再びイラッとした気持ちが芽生えてくる。
自分がこんなに気にしてしまうのに、マヒルは自分に対して何も気にしていないようだからだ。
昨夜、あんなに恥ずかしい姿で、エルにめちゃくちゃに犯された一部始終を姫奈に見つめられたはずなのに。その後にも、姫奈がエルと激しく絡み合うのを同じベッドの真横で目にしていたはずなのに。なぜ翌朝にはこうも平然としているのか。自分だけがマヒルを意識してしまうことに、苛立ちを覚えてしまう。
「……マヒルくん」
「はい」
またマヒルの名前を無意識に呼んでしまった。マヒルもこちらを向いている。声をかけてしまったからには、何か話を繋がなきゃ。姫奈は焦る。
「マヒルくんって……名前なの?」
「えっ?」
「あ……。苗字なの? 名前なの? ……上の名前? 下の名前?」
姫奈は慌てて疑問詞をたくさん重ねてしまう。
「マヒルは、下の名前です」
懐の名刺入れから名刺を取り出したマヒルは、スッとテーブル上に差し出してきた。姫奈は恥ずかしさから、奪うように名刺を取って見る。
天川マヒル、と書かれたマトリアルカ社員の名刺。
「てん……かわ……マヒル……」
「あまのがわマヒル、と読みます」
「天の川?」
「はい」
「変なビジネスネーム」
「実は本名です。すみません」
マヒルに言われて、姫奈は恥ずかしくなり肩をすくめた。本名に対して変な名前とは、失礼にも程がある。マヒルから先に謝られて、こちらが謝るタイミングを失い、さらに焦る。
「マヒルって、漢字だと真っ昼間の『真昼』? 」
「いえ、カタカナです」
「わざわざカタカナにしてるのは、エルさんの真似をしてるから? 変じゃない?」
姫奈の口から、どこか毒づいた言葉が次々に出てしまう。また「変」と言ってしまった。マヒルへの苛立ちが、嫌味な言葉になって出てしまう。姫奈も良くないことだとは分かっていても、なぜだか発言が止まらない。
「エルさんみたいなカタカナ表記に憧れて?」
「本名がそれです」
「そんなわけないでしょ」
「本当です」
「そんな名前をつける親、いるわけない」
「僕も理由は知りたいです」
「なんで聞いてないの」
「父は僕が生まれる前に、母は僕を産んですぐに亡くなりました」
「え……」
なぜか嘲笑の言葉が立て続けに出ていた姫奈の口が、ようやく止まった。唖然としている姫奈に、マヒルは淡々と話す。
「……」
「父と母が亡くなった時、遺品の手帳には僕の名前の案として、カタカナでマヒルとだけ書かれてたそうです。漢字はこれから考えようとしていたのかもしれません。祖母がノートの表記のとおりに出生届を出したそうで、だから本名なんです。ややこしくてすみません」
「あ……、あの……、あの……、ごめんなさい」
「気にしないでください。僕の物心つく前の話ですから」
反省してうつむく姫奈に、マヒルは優しく声をかけた。資料の用意が終わったようで、書類を揃えてビジネスバッグに詰め込んでいる。
テーブル上にチャラッと金属音が鳴り、下を向く姫奈は横目だけを向ける。マヒルがキーを差し出していた。
「エルさんから預かった、このマンションの合鍵です。自由に出入りしていいとのことです。持っていてください」
マヒルは準備を終えて立ち上がると、いつしか食べ終わっていた姫奈の食器と箸を回収し、手際よく備え付けの乾燥機に入れてスイッチを押した。
「では僕は出社します。分からないことがあったら、僕でよければ何でも聞いてください。大学に行かれる前にシャワーを浴びるなら、脱衣場の棚にバスタオルを置いてます」
姫奈は座ってうつむいたまま動かない。調子に乗ってマヒルに失礼な言葉を浴びせたことを悔やんで、自己嫌悪に陥っている。
「姫奈さん」
玄関に向かおうとするマヒルが、振り向いて声をかけた。姫奈は目線を下ろしたまま、ビクッと震える。マヒルから自分の名前を呼ばれたのは初めてのことだったからだ。
「姫奈さん……。ありがとうございます」
「……?」
「姫奈さんが男性恐怖症に苦しんできたこと、聞きました。僕もどうしていいか分からず、気遣いが足りずに申しわけありませんでした」
「……」
「でも今、姫奈さんは勇気を出して、男の僕にたくさん話をしてくれました。ありがとうございます」
「……」
「エルさんは不思議な人で本心がつかめない人ですが、姫奈さんを大切に想っている気持ちはきっと本当です。エルさんは姫奈さんを必要としています。不満や不平があれば、僕がいくらでも受け止めます。だから、エルさんを見捨てないであげてください」
「……」
「では、会社に行ってきますね」
マヒルは穏やかに言うと、リビングの扉を閉めて出社していった。
パタンと玄関のドアが閉まる音が遠くに聞こえ、エルのマンションに一人残されたことを実感した姫奈は、両手で強く額を抱えて、悩ましくテーブルに肘をつく。カタカタとテーブルが揺れる。
(私、最低だ………)
男性恐怖症だと言っておきながら、無意識に話せた男性のマヒルに対しては失礼な言葉ばかり放ってしまった自分。すぐにマヒルに謝罪することさえしなかった自分。勇気を出して話したんじゃない、勝手にそんな罵り蔑む言葉が出てきたんだ。自分の本性は、そこまで汚いんだ。
エルに出逢えたことで輝ける人間に生まれ変わってきたと勘違いをしていた。情けなくて、恥ずかしくて、自分で自分のことを殴りたい。
涙があふれて頬を伝っては、テーブルに落ちていった。
(第6話につづく)




