第4話 同行と同棲(2)
「ねえ、姫奈。うちにおいでよ」
「……?」
「私のマンションで、一緒に暮らそう」
「……!」
パンケーキを頬張っていた姫奈は、エルの言葉に喉を詰まらせ咽せた。
出張後に二人で寄ったカフェラウンジ。姫奈は慌てて水を呑み、気道を確保する。何度か咳をしてエルの表
情を見たが、冗談ではなさそうだ。
「な……なんで……」
「イヤ?」
「違いますっ。違うんですけど……、その……突然の話で……」
「姫奈ともっと一緒にいられたら、仕事の話ももっとできるし、それに、私はもっと幸せよ」
「わ……私も……、幸せです……。私なんかでよければ……」
姫奈はうろたえながら言葉を絞り出す。エルとの生活なんて、どれだけ幸せなことなのか想像もできない。
「私の住んでる家、一室空いてるの。姫奈がそこに住んでくれたら嬉しいな。姫奈が今住んでる部屋は、退去までの家賃は私が出すから、すぐにでもうちに引っ越してきなよ」
エルはコーヒーを飲みながら、どんどん話を進めていく。姫奈は理解が追いつかないうちに、どんどん顔が赤くなる。
しかし、姫奈には以前から疑問に思っていることが一つあった。
エルの話を遮って、思わずそれを訊く。
「あ、あのっ……」
「なに?」
「他にも女性が何人か一緒に住んでいる、とか……」
「ふふっ、そんなわけないでしょ」
「そう……ですよね……」
姫奈はエルの回答に、ほっと安心の息をつく。うつむいた顔には笑みが自然に浮かんでいる。
姫奈の疑問とは、エルが肉体関係を持っているのは自分だけではないのではないか、ということだった。
ここ数日、マトリアルカの社内でエルに挨拶する女性メンバーに多く会ったが、みんなエルにうっとりとしている気がした。ずっとエルに心酔してきた自分だからこそ分かる。みんなエルに憧れて入社している。
そしてエルの彼女たちへの何気ないスキンシップ。エルは彼女たちとも関係を持っていて、自分は単にその中の一人であって特別な存在ではないのではないか。そういう不安が姫奈の中に渦巻いていた。
エルがもし複数の女性を一緒に住まわせ、そこに姫奈を追加しようとしているだけだったらどうしよう。姫奈の心にそんな心配が生じた。しかし、エルの答えを聞いて、自分だけが特別なのだと確認できて嬉しく思った。
エルがくすりと笑いながら、姫奈に聞く。
「姫奈の他にも女の子が一緒に住んでるって思ったんでしょ」
「あ……、いや……、その…‥、はい、すみません」
「姫奈は私にとって、特別な人よ」
「エルさん……」
姫奈は顔から蒸気が上がりそうなぐらいに紅潮した。
エルは姫奈がどれぐらいエルに恋焦がれているかも見通している。そして、エルの本当の気持ちが分からないという姫奈の不安も見透かしている。姫奈の全てがエルの手中にある。でもそこに妙な心地良さがあった。
「部屋にはベッドもあるから、今日からおいでよ。一度自宅に戻って必要なものを持ってくればいいから」
「あの……、本当に私なんかが……いいんですか」
「もう、姫奈はほんと心配性ね。私は姫奈に近くにいてほしいし、私も姫奈の近くにいたいの」
エルのまっすぐな視線に見つめられ、姫奈はその瞳に吸い込まれていくような心地がした。このままエルの中に溶けてしまいたいとも思う。
エルは本当に自分のことをそこまで好きでいてくれている。その言葉を聞けただけでも、姫奈は幸せの頂きに立った気分だった。
姫奈は自宅から着替えや明日の授業の用意など、必要なものをキャリーバッグに詰めて、エルから住所を聞いたマンションにやって来た。
都心の築浅の高級マンション。いかにも注目の女性社長の住まい。エントランスもエレベーターも美しく、
今にも芸能人とすれ違いそうな空間だ。
インターホンを押してドアが開いた。姫奈はドキッとする。
そこに現れたエルは白いブラウス姿だった。広く開いた胸元。その裾から出た生足。これまで見てきたエルは常に完璧な服装で、こんなにも砕けた部屋着姿のエルは見たことがない。
「姫奈、よく来てくれたね。入って」
「お、おじゃまします……」
中には広々としたリビングがあった。機能的なアイランドキッチン。心地よさそうなソファー。広く大きく夜景が見える窓。ムーディーな間接照明。まるでショールームのように洗練され、エルの生活感が全く見えない。
「姫奈の部屋はこっちよ」
エルはキャリーバッグを持ってくれて、奥の一室へと通した。姫奈が住んできたワンルームよりも少し広い部屋。セミダブルベッドとデスクも完備だ。ここに住むことになるんだ、と姫奈はドキドキしている。
持ち込んだ荷物を部屋に置くと、エルは廊下のさらに奥にあるドアを指差した。
「あそこが私の寝室」
姫奈は興奮度が高まっていた。エルと自分が同じ家に住み、寝室もこんなに近い。それを知っただけで、姫奈は体が喜びに震える。
不意にエルが姫奈の手を取り、その身体を廊下の壁に押し付けた。
「……!」
壁を背にした姫奈の唇に、エルの唇が重ねられる。とろけるほどに柔らかいエルの舌が姫奈の口に入り込んで、その舌にまとわりつく。
「ん、ん……」
姫奈は身体中が溶けそうになり、目を閉じてエルの背中に片手を回した。憧れのエルの舌を向かい入れたこの場面が、いつまでもいつまでも続いてほしい。そう思うと、姫奈の全身は蒸気機関のように熱くなっていく。
エルがゆっくりと舌を引き抜くと、思考が回らない姫奈は無意識にその舌を追おうと唇をパクパクさせていた。エルはそっと姫奈の頬に手を添え、至近距離で姫奈の瞳を見つめる。姫奈は放心状態だ。
「姫奈……。私は、あなたの全てが好きよ」
「エルさん……。私もです」
「姫奈。私の全てを、愛してくれる?」
「はい……」
「私の全てを、見つめててくれる?」
「はい……」
「私の全てを、受け入れてくれる?」
「はい……。エルさんの全てが好きです」
「本当に、私の全てを?」
「全てです。誓います」
「姫奈」
エルは姫奈の答えを聞くと、ぎゅっと強く抱き締めた。エルの体温に包まれた姫奈も、強くエルを抱き締め返す。
「姫奈が私の全てを受け入れてくれなかったら、私はきっと姫奈とは一緒にいられない。姫奈、どこへも行かないで……」
姫奈の耳元に顔を埋めたエルがささやく。姫奈は涙が出そうだった。自分こそエルに見捨てられたくない。エルといつまでも一緒にいたい。エルを抱きしめる手にさらに力が入る。
「エルさんの全部が好きです……。全部受け入れたい……。だから、ずっと一緒にいさせてください」
姫奈は心の内を告白した。自然に言葉が出てきた。
「嬉しいわ、姫奈。私の全てを受け入れてくれて」
エルは姫奈の額に自らの額を合わせて微笑む。
そして、エルは姫奈の肩に手を添えると、姫奈に当てがった部屋の隣室のノブをひねってドアを開けて誘い入れた。
姫奈が後々今夜のことを決して忘れられなくなる、その部屋に。
(第5話へつづく)




