第2話 絶望と希望
憧れ続けた麗しき女性起業家・真鳳エルが、自分に声をかけてくれた。それだけでも光栄すぎるのに、なぜか自分の名前を知ってくれている。姫奈は飛び出しそうな心臓を埋めるように指で胸を押さえる。
「エ、エル社長……、あ、あの……」
「ヒナさん、車に乗って行かない? お家まで送るから」
真鳳エルが右手のキーを揺らして見せる。
姫奈は狼狽えながらも、ついうなずき、駐車場まで無言でついて行って、促されるままにセダン車の助手席に乗った。
運転席に乗り込んでシートベルトを閉める姿も美しいエル社長。二人きりで近くに並ぶこの状況に、姫奈の心臓は今にも爆発しそうだった。
「ご……ご自分で運転されるんですね……」
「行きはうちのスタッフが運転してくれたんだけどね。電車で帰ってもらったの」
「え……どうして……」
「男だからよ。ヒナさんは男性が苦手だと思って」
「そんな……いいんですか」
「いいの。彼ね、会場で不意に男性恐怖症の女性の両腕に触れちゃったらしくて、相手を苦しませたって落ち込んでてね。そっとしておこうと思って」
「あ……」
その女性は私だ、と姫奈はうつむく。
開演前のロビーでつまずいた自分を支えてくれたあの若い男性はマトリアルカの人だったんだ、迷惑をかけちゃったなと、申し訳ない気持ちになった。
エルは車を走らせ、東京行きの高速道路へと入る。姫奈は助手席からちらりとエルの横顔を見る。高級車のハンドルを握るエル社長の姿もやはり麗しくかっこいい。
しかし、のぼせるような気持ちの中で、姫奈の頭の中にはいくつもの疑問がぐるぐると巡る。
なぜ時の人である真鳳エル社長が、引きこもりの大学生にすぎない姫奈の名前を知っているのか。なぜ姫奈が男性を苦手だいうことも知っているのか。なぜ姫奈が東京方面に住んでいることも知っているのか。そして何より、「私もあなたに会いたかった」と言ってくれたのはなぜなのか……。
緊張で言葉が出ずにいたが、姫奈はしばらくしてから思い切って運転中のエルに訊いた。
「あ、あのっ、エル社長……」
「ん?」
「どうして、私に……私なんかに、会いたいって……」
姫奈は緊張で潰れそうな声を絞り出したが、エルはふっと微笑んで運転を続けている。返ってこない返事に、姫奈の顔は不安と恥ずかしさでますます紅潮していく。
やがてエルはパーキングエリアに車を入れた。閑散としている駐車場の一画に停めると、エルはようやく姫奈のほうに目を向けてくれた。落ち着いて話したかったのだ。
姫奈の目を見つめて、エルは言う。
「今の私があるのも、マトリアルカがあるのも、ヒナさんのおかげだから」
「……えっ?」
姫奈は驚いて一瞬硬直したが、慌てて否定の手を振る。
「いやいやいやいや……、そんなわけ……」
「タカヤマ、ヒナさん、ですよね?」
「……っ!」
姫奈の言葉を遮ってエル社長が口に出した、本名ではない名前。その名を聞いて、姫奈は一気に血の気が引いた。
「……ど、……ど、どうして、わ、分か……」
「さっき、壇上で見て気づいたから」
エルの回答に、姫奈は全身から汗が吹き出しそうになる。
鷹山ヒナ。姫奈がかつて捨てた、子役時代の芸名だ。
思い出したくないあの幼少の頃のキャリア。何作かのドラマや映画に出演はしたが、事件があって絶望し引退してから、引きこもりがちになった。
目立ちたくない、人に見られたくない。姿勢は怯えるように丸くなり、髪や肌は荒れ、表情は虚ろになり、子役・鷹山ヒナの面影は完全に消えた。そして数年も経って、世の人たちの記憶からもほぼ消えたようで、しばらく誰からも気づかれずにいた。
「わ……、分かるはずないです。私、あの頃と全然違うし……」
「いえ、目が合った瞬間に分かったよ。ずっと会いたかった人だもの」
「でも、でも……」
姫奈はパニック状態だが、エルは落ち着いて言葉を続ける。
「私、ヒナさんが出てた作品を観てた。そして、ヒナさんの引退も知った。すぐに消されたSNSの投稿も、たまたま見たの」
「え……、あれを……?」
姫奈はあたふたする。自分が封印した過去に憧れのエルがぐいぐいと入り込んできていることに、今までにない戸惑いを感じていた。
人気ドラマで主人公の娘役を演じて一気に注目されたあの頃。
周囲の大人の男性の好奇な視線や卑猥な言葉に嫌気が差していた矢先の、信用していた男性マネージャーから受けた強姦未遂に近いセクハラ。守ってくれなかった所属事務所。不信と絶望でSNSに想いの丈を書き連ねて引退を示唆する投稿をしたが、わずか十数分のうちに事務所に消された。そして鷹山ヒナはひっそりと芸能界を引退した。心が壊れ、極度の男性恐怖症になったきっかけだ。
問題のSNS投稿も瞬間的にはネットで話題となったが、子役など次から次に新人が世に出てくる。鷹山ヒナの名は急速に忘れられていった。
今となってはほぼ誰も知らないはずの、たった十数分だけ公開されたあの自分の投稿を、エル社長は見てくれていたという。信じられない。
「ホントに……?」
「ええ。それまでの私も男性恐怖症の大学生だったの」
「え……嘘……」
「それで、少しでも人生を変えたいと思って、学内のミスコンに出たんだけどね。男性主催者たちの運営の批判をして出場辞退をしてね。これが問題になっちゃって」
(あ、知ってる……。あの「ミスコン辞退騒動」だ)
エルの話を聞いて、姫奈は驚く。憧れのエル社長のことはくまなくネット検索をしたので、その話も当然知っていた。
かつてエルが国立大学のミスコンに出場し、ファイナリストの中でもぶっちぎりの首位を維持していた本戦で、突然運営批判を声高に唱えて辞退したという事件。ネットでも検索すればたどり着く話だ。
この騒動の内容はその後もルッキズム反対派やジェンダー論者たちの主張の論拠にも利用され、やがて全国
の大学のミスコンやミスターコンが下火になっていくきっかけにもなったという。
「その騒動の時、とてつもない誹謗中傷に晒されてね。心が壊れて、仕方なく大学を中退したわ」
「ひどい……」
「そんな時よ。あのヒナさんの勇気ある投稿を見て、勇気をもらった。それで奮起して、マトリアルカを起業したの」
「え……」
「女性優位の社会の実現に向けてがんばりたい。そう思ったのは、ヒナさんの投稿を見て、こんなに苦しんでいる女性がいるんだ、それでも勇気を出して声を上げたんだと、私の心に刺さったから。だから、今の私や会社があるのは、ヒナさんのおかげ。いつか会って、お礼を言いたかった」
エルが目を細めてにこりと笑った。吸い込まれそうな美しい瞳を見ながら、いつの間にか、姫奈の目からはひとすじの涙が流れていた。
自分に存在価値なんて一つもないと、ずっと思ってきた。それなのに、自分がいつも試聴していたマトリアルカの動画が、自分の行動から始まっていたなんて。
しかし、自身を変えて活躍の場を広げているエル社長に比べ、あれから自分を何も変えられていない自分。あまりに情けない。そう思うと、自然に涙があふれてくる。
「エル社長も……、昔は男性恐怖症だったんですか」
「そうよ。極度の人間不信でね。外に出るのも怖かった」
「でも……、人生が変わったんですね」
「そうね。自分で変えたの」
「……私も……私も、いつかは変わらないと……と思ってはいるんですけど、でも……でも……うぐっ」
姫奈の声は泣き声へと変わる。あふれる涙と丸眼鏡の曇りでエルの顔がぼやけ、姫奈はうつむいて頬を伝う涙を左手で拭う。
膝の上に置いて震えている姫奈の右拳の甲が、温かさに包まれた。エルが手を重ねている。
「変わりたいの?」
「……はい、変わりたいです。でも、変われなくて……。こんな自分、すぐにでも変えてしまいたいのに」
「そう」
エルは優しくうなずくと、姫奈の右手をぎゅっと握った。心地よいエルの体温に、姫奈はドキドキが止まらない。
「ヒナさん。……いや、姫奈、って呼んでいい?」
「は……はい、もちろん」
「じゃあ姫奈、これから夜まで時間ある? 門限はいつ?」
「あ……、時間は大丈夫です。一人暮らしですし」
「そう。じゃあ、ちょっとこれから私に付き合ってくれる?」
エルはそう言うと、スマホを取り出してあちこちへ連絡を始めた。そしてアクセルを踏み込むと、パーキングエリアを出て東京へと走る。
「あの……、エル社長、これからどこへ……」
「姫奈。今から私があなたを変えてあげる。かつてあなたが私を変えてくれたみたいにね」
エルはちらりと姫奈を一瞥して微笑むと、アクセルをさらに踏み込み、車は一気に加速した。
(第3話へつづく)




