第8話 要望と欲望(1)
「姫奈には、まだ早いんじゃないかな」
ミーティングルームでエルは姫奈の話を聞くと、ラップトップPCで仕事を進めていた手を止めて答えた。
「私じゃ……、力不足でしょうか」
「いや、姫奈にはすごく向いてるとは思うよ」
エルはPCの画面をパタンと閉じると、姫奈のほうに膝を向けた。姫奈ときちんと対話しようとする姿勢だ。
姫奈は今はエルのアシスタントとしてマトリアルカで働いているが、茜音や梨緒から「一緒に仕事をしようよ」と誘われたことで、彼女たち所属キャストたちのマネージャーの仕事も自分にできないか、とエルにそれとなく要望を伝えたのである。
「茜音と梨緒からも聞いてるよ。姫奈をマネージャーにどうかって」
「えっ、そうなんですか……」
姫奈は驚く。茜音と梨緒はもう既にエルに連絡をしてくれていたのだ。彼女たちはからかっていたわけではなく本心で誘ってくれていたのだと分かり、姫奈は嬉しくなった。
「でも、まだ早いっていうのは、私の実力がまだ全然……」
「そうじゃないよ。うちはそれぞれのチームでセルフマネジメントが基本だから、マネージャーといっても、企画支援課っていう小さな部署が補助的にサポートしているだけの状態でね」
「だったら、私はその部署の方をお手伝いして……」
「その企画支援課にいるのは、マヒルくん一人だよ」
姫奈の言葉を、エルが遮る。その名を聞いて、姫奈の息は止まる。
「……」
「姫奈にもやらせてみたいなとは思う。でも、マヒルくんと二人だけの部署になっちゃうよ。その部署には入れないにせよ、マヒルくんと交代させるにせよ、仕事の指導や引き継ぎは結局、男のマヒルくんにやってもらうことになる。姫奈はそれでも大丈夫なの?」
「……」
「最近はマヒルくんの業務が予想以上に増えてるから、早めに体制は整え直そうかなと思ってるけど。それまではまだマヒルくん一人の仕事だから、そこに姫奈が入っていけるかなあと思って」
エルは姫奈の男性恐怖症を気遣ってくれていた。
マトリアルカには多数の所属キャストがおり、複数人でチームを組んでいるが、基本的には自分たちで企画、スケジューリング、撮影、予算管理など発信に必要なことをほぼ全てこなしている。サブチャンネルにおいては編集やアップロードも自らしているという。
メインチャンネル用の動画の編集作業やコラボ案件の営業など、必要なことがあれば制作部や営業部などマトリアルカ本社の各部署と打ち合わせて、一緒に企画を作っていく。
企画支援課は社長直属の部署で、マヒル一人しかいない。企画の相談、撮影のサポートなど、キャストが必要に応じて呼び寄せる、いわゆる何でも屋の遊軍的存在だ。創業当初はこの役目を真鳳エルが担っていたが、事業の拡大が加速化しエルが社長業に集中するようになってからは、マヒルが受け継いでいる。
そのマヒルがマネージャーと呼ばれるのは、女子大生であるキャストたちがコラボ案件の交渉や撮影の現場などに出向いた時に、彼女たちの代わりに社会人相手に矢面に立つことができるからである。
姫奈がやりたいと思った仕事は、まさにそのマヒルの領域だった。せっかく自分が意欲を持ったところに、またもマヒルが鎮座している。姫奈はまたマヒルに対してイラッとする気持ちが芽生えてきていた。
「その……、私……」
「姫奈の仕事に対するその意気込み、素敵よ。自分のやりたい仕事を自分で見つけたことも素晴らしいわ。でも、男のマヒルくんの部下になるっていうのが、納得いかないんでしょ」
「あ……、いや……」
エルに心の内を読まれて、姫奈は顔を赤らめてうつむく。エルには隠し事は通じない。またも心を見透かされていて、返す言葉もない。
エルは続ける。
「そこを気にしてるなら、大丈夫よ。マヒルくんは課のリーダーじゃない」
「えっ……」
「企画支援課は社長の私の直属で、姫奈が入るなら二人は同格になるの。マヒルくんとは上下関係にはならないわ。ただ、複数の業務を振り分けていくには、二人の連携がどうしても必要になってくる。姫奈にはできそう?」
エルは本心では姫奈に仕事を任せたいと思っているようだ。あとは姫奈の心の問題だけなのだ。エルの期待に応えるためには、姫奈が自分で自分の心の中の壁を乗り越えていかなければならない。
マヒルの顔が姫奈の脳裏にちらつく。顔だけではなく、夜に見たあの露わな肉体、さらにはエルや茜音や梨緒たちとの激しく絡む姿まで浮かんできて、嫌悪感が湧き立ってくる。でも姫奈には、マネージャーが自分の適職という気がしてならない。
「あの……、もし無理そうなら……、エルさん助けてくれますか」
「助けないよ」
「えっ……」
「そこは私の仕事の領域じゃないからね。社長直属と言っても、そこはマヒルくんの仕事の領域。そこでの仕事が無理だと思うなら、最初からやらないほうがいい」
「……」
「心配なんでしょ。マヒルくんも男。男なんてみんなケダモノで、何をしてくるか分からないって」
「……いや……、その……」
「私はマヒルくんはそんな男とは違うと信じてるよ。私の彼氏だから信じてるんじゃない。信じたから私の彼氏にしたの」
「……」
「そして、姫奈だってそんな不安の壁を乗り越えていける強い人間だと信じてる。その二人が一緒に仕事をするのも、案外うまくいくんじゃないかとも思ってるわ。でも姫奈がイヤなんだったら、やるべきじゃない。姫奈の気持ちを尊重するわ」
エルは言いながら、机上のPCや資料を片付け始めた。伝えたいことは全て伝えた、この話はもう終わるけど、という合図に思える。姫奈は追い込まれるような気持ちになっていく。
「私……、キャストの皆さんのためにも働いてみたいんです……。それが、エルさんのためにもなると思ってます」
「そうね。私は社長としてすごく嬉しいし、助かるよ」
「それなら……、私……、やってみたいです」
姫奈はなんとか言葉を搾り出している。その覚悟の言葉を聞くと、エルは大きくうなずいて立ち上がり、姫奈の腕を引き上げて同じように立たせた。姫奈の両肩をぱんぱんと叩き、笑顔で言う。
「素敵よ、姫奈。覚悟を決めて踏み出す、人生にはそれが大事。姫奈にはそれができると、信じてた。嬉しい」
「エルさん……」
「心配しないで。企画支援課はキャストだけじゃなくて、社長だってサポートを求めるの。だから姫奈、私のアシスタントの仕事も引き続き、いろいろとやってもらうんだからね。覚悟してねっ」
「あっ……、はい、がんばります!」
エルの激励に、姫奈は涙がにじむぐらいに喜んだ。
企画支援課での仕事がどうなるか、男のマヒルと同じ部署で大丈夫なのかどうかは、やってみないと分からない。しかし、エルの見せる姫奈への期待を見ると、姫奈にはどんな困難も乗り越えられそうに思えた。エルのために、エルの会社のために全力を尽くそう。そういう気焔が心の中に沸々と湧いてくるのだった。
企画支援課のメンバーとしての初顔合わせから、姫奈はマヒルにイラッとしていた。
マトリアルカのミーティングルーム。姫奈とマヒルの二人での初めての打ち合わせ。
先に来ていたマヒルが八人掛けのテーブルの右端に座っていたので、姫奈はその正面に座ろうと椅子を引いたが、タブレットに目を落としているマヒルはその瞬間に、姫奈の最も斜向かいの左端に座った。
「あの……、マヒルくん」
「はい」
「私のこと露骨に避けるの、やめてもらえる?」
「え?」
「そんなに遠くの人と打ち合わせできないでしょ。どうして避けるの」
「あ、姫奈さんは男の僕に近づかれるのが苦手だと思ったので」
「私のほうから近くに座ったでしょ。それなのにわざわざ遠ざかるなんて、なんか気に障る」
「じゃあ、お近くでもいいんですか」
「別にいいよ」
「本当にお近くでも大丈夫ですか」
「だから、いいよ。しつこいよ」
「じゃあ、そうします」
マヒルは立ち上がると、姫奈の正面に移動してその椅子を引こうとした。
途端に姫奈の心臓はドクンと脈打つ。真正面に男性が座る、そう思うとまた男性への恐怖が途端に起こってくる。
「あっ……」
姫奈がふと気づくと、マヒルは正面の椅子を正して、その横の椅子に着座していた。姫奈の表情から男性恐怖症の発作を読み取ったのだろう。姫奈は気遣わせて申し訳ない気持ちと、いちいち心を読まれる恥ずかしさで、深く息を吐く。
そこからマヒルは、お互いのタブレットのマトリコで企画支援課のスケジュールを淡々と打ち合わせた。姫奈はマヒルの存在がいちいち気になりながらも、仕事のことは聞き漏らすまいと必死についていった。
正直、男性の声を至近距離で聴き続けるのも辛い。マヒルの平然とした声自体は大丈夫だが、いつ男性から突然怒鳴られてしまうのか、いつ皮肉や嫌味を突然言われるのか、そしていつ卑猥な言葉を突然投げかけられるのか、という恐怖心が心に湧いてしまう。子役時代の苦しい経験が、今でも姫奈を苦しめる。
「……以上が、今週のだいたいの僕らのスケジュールです。分からないことがあったら、遠慮なく何でも訊いて下さい」
マヒルの説明が終わった。男のマヒルが豹変することもなく、姫奈はひとまず安心の息を吐く。
「……じゃあ、遠慮なく訊くけど」
「どうぞ」
「……あ、いや、訊きますけど……。いや、えっと、訊かせていただきますけど……」
姫奈が慌て始める。よくよく考えてみれば、先ほどから年上で先輩のマヒルについタメ口で会話をしていた。仕事なんだからちゃんとしないと、と焦って言葉を正そうとして、余計に混乱してしまう。
マヒルはすぐに姫奈の心を察して言う。
「姫奈さん。僕には敬語でなくても、全然構いません」
「え、いや、それは……、マヒルくんが……じゃなくて、天川さんが……」
「姫奈さんは普通でいいんです。くん付けで構いません」
「……そ、それなら、それならマヒルくんだって、普通にして、敬語やめてよ」
「僕はこれが普通なので、このままでいきます」
「……!」
マヒルの即答に、姫奈はカチンとくる。何を言っても表情を変えず受け流すマヒルに、どこかイラッと感じてしまう。
「じゃ……、じゃあ、遠慮なく質問させてもらうけど」
「どうぞ」
「女子大生キャストの皆さんは、マヒルくんや私のサポートが必要な時に、自由に予定を押さえるという仕組みなんだよね」
「そうです」
「じゃあ……、マヒルくんは……、キャストたちに求められたら、どんな要望にも応えるの?」




