第7話 茜音と梨緒(1)
大学が終わると、姫奈はマトリアルカのオフィスに出社した。
いつもは社長の真鳳エルに同行することが多いが、今日はエルが一人で遠方に出張しており、姫奈には本社での資料作成の作業が与えられていた。
制作部の一席を借りて、パソコンで仕事を進めていく。表計算ソフトなど数々のソフトウェアは引きこもり時代に飽きるほど触っており、姫奈にはお手のものだ。
「おつかれさまでーす」
入口のほうで若い女性の明るい挨拶が聞こえたが、デスクで作業中の制作部の社員たちが次々に立ち上がり、声を返していく。
「お帰りなさい」
「おつかれさま」
姫奈も吊られて立ち上がり、同じように挨拶しようと思って入口のほうを見て、ギョッとする。
「ただ今戻りましたー」
キャリーバッグを引いて現れた二人は、マトリアルカ所属の人気配信者、茜音と梨緒だった。今後公開の配信企画のための撮影ロケに泊まりがけで行っていたという。
姫奈は昨夜の映像を思い出して、ごくんと生唾を呑む。
宿泊部屋のベッドの上で茜音と梨緒が、マヒルと激しく交じり合っていたあの配信映像。あんなにも乱れていた二人が今まさに目の前にいる。姫奈はつい動揺してしまう。
「あ、姫奈だー」
「ほんとだ。姫奈、おつかれー」
姫奈の姿を見つけた茜音と梨緒は、手を振りながら駆け寄ってきた。姫奈は顔が真っ赤になって、反射的にうつむいて視線を逸らす。
「なによー姫奈。まだ他人行儀なわけ?」
茜音が姫奈の肩に手を回して、耳元で問いかけた。社交的な雰囲気の茜音は、初対面の時こそ「姫奈さん」とさん付けで呼んでいたが、同学年だと分かった二度目からはすでに「姫奈」と呼び捨てになっていた。梨緒もそれに釣られていつしか同じ呼び方になっている。
姫奈は心臓の爆音が気づかれないかと、左胸を押さえる。
「だって私は……、その……、ずっとお二人の動画を観てきた一ファンなので、茜音さんと梨緒さんに直接話すのも恐れ多くて……」
「もぅ、さん付けはやめようよ。ねぇ梨緒」
「そうよ。姫奈はマトリアルカの仲間になったんだし、同い年なんだから。私のことは梨緒でいいからね」
「いや……、そんな……」
梨緒に優しく諭されてもなお、姫奈はますます萎縮する。本当の緊張の理由は、昨日のマヒルとの夜の映像が頭にちらつくからなのだが。
しかし、姫奈の恐縮は確かに底なしだった。初期の頃からマトリアルカの動画はほぼ全てチェックしてきた姫奈は、マトリアルカ全体を「箱推し」している。エル社長への愛情と憧憬は別格としても、動画に出演する全ての所属メンバーのことが好きだ。メンバー全員が憧れの萌え対象であり、画面の向こうの世界の手が届かない人も同然なのだ。
マトリアルカのフラッグシップであるメインチャンネルは、いまや登録者数が間も無く1000万人に達するほどの人気で、女性向けというコンセプトこそあれど、所属メンバーたちがいろんなタイプの企画を持ち寄って配信している、バラエティ豊かな内容になっている。
その所属メンバーたちは数人単位でチームを構成しており、それぞれのチームがそれぞれのコンセプトを持つサブチャンネルを持ち、メインチャンネルよりも比較的自由な内容で各々発信をしている。サブチャンネルの登録者数を見るだけで、チームごとの人気の差も明らかに分かる。
茜音と梨緒の二人は「チャーミー」と名付けられた大学二年生五人組のチームに入っており、そのサブチャンネルの登録者数は既に200万人を超え、マトリアルカの中でも一、二を争う人気のチームだ。
茜音は小顔ではつらつとした美少女だ。高校時代には駆け出しのアイドルグループに在籍していた。早々に脱退した理由は不明だが、加入直後に行われたファン投票で不動のセンターを押し退けていきなり首位に立ったことがあるほどの注目株だった。
梨緒は健康的で豊満な胸が眩しく、何より美しい声が印象的だ。声優養成所に通っており、マイナーなアニメやナレーションの仕事も既にいくつかこなしている。マトリアルカ本体のPR動画や、真鳳エル社長の講演会の告知動画なども、実は梨緒が声を当てている。
茜音と梨緒の二人の仲の良さは視聴者の間でも有名で、話の面白さもあって固定ファンも多い。二人だけのトーク動画は毎回安定して視聴者数を集めている。
そんな人気者の茜音と梨緒の二人が、なぜか姫奈のことを気に入ってくれていて、気さくに話しかけてくれる。しかし姫奈にとっては、茜音と梨緒は初登場時から応援してきた天上の人であり、いまだに一ファンとして緊張してしまうのだ。
その茜音と梨緒のマヒルとの淫靡な絡みを目撃してしまった次の日なので、姫奈はいろんな場面が脳裏に浮かんで顔が紅潮してしまう。
肩に手を回す茜音が、問いかけてきた。
「じゃあさ、姫奈。この後、夕方から空いてる?」
「え……?」
「梨緒と夕食するんだけどさ、一緒に食べようよ」
「わぁ、それいい。私も姫奈ともっと話したいな」
茜音の提案に、梨緒も手を叩いて喜ぶ。姫奈はいっそうドキドキする。チャーミーの二人と一緒に食事ができるなんて、夢のようだ。
今夜はエルが外泊の出張で留守だ。そして、マヒルが出張を終えて帰ってくる。あのマヒルと二人きりの夜は絶対に気まずそうだ。茜音と梨緒との食事なんて恐縮しきりで落ち着かないだろうが、マヒルと二人きりよりまだマシだろう。姫奈は思わず首を縦に振る。
マヒルには帰宅が遅くなる旨のメールを後ほど入れておくことにして、急いで残りの仕事に取り掛かった。
姫奈の心臓は大きく高鳴り、顔は赤く染まって肩は窄まる。
ソファーテーブルに惣菜の小皿やお菓子が並ぶ、女子会の様相。
そこは、茜音と梨緒の居宅のリビングだった。
二人に夕食に誘われた時には、てっきり外食するものだろうと思っていたのだが、ついていくと家飲みだった。
(わぁ……、あの部屋だ……)
このリビングを姫奈は知っている。茜音と梨緒が二人でトークをする動画企画でよく撮影場所として使われている場所だ。どちらかの自宅だとは思っていたが、まさか二人がルームシェアをしているとは思わなかった。
それぞれの個室がリビングの奥にあるという。女子大生二人が住むにはあまりに広いマンション。人気配信者の二人は、よほどマトリアルカの配信で大きな利益を上げているのだろうということが見て取れる。
動画で見慣れたそのソファーの一画で、姫奈は茜音と梨緒の間近に座らされている。姫奈にとってはトップアイドルのような二人と同席させてもらっているだけで、恐縮と幸せが過ぎる。
(私なんかが呼んでもらえて、いいのかな……。場違いじゃないかな……)
姫奈は心配する。二人と自分とでは、立場が全く違う。
テーブルに並んでいる料理の数々も、茜音と梨緒が手際よくキッチンで作ってきたものだ。二人は以前に動画企画の中でフードマイスターの資格に挑戦しており、そこで見せた料理の腕が目の前で披露された。
この美貌にして話し上手で性格も良く高学歴、さらに料理まで上手となると、まさに女性として尽善尽美だ。そんな彼女たちの料理を口にできるなんて、なんという幸福なのだろう。
姫奈の頭が緊張で沸騰して混乱しているのに対して、茜音と梨緒は姫奈が遊びに来てくれたことを心から喜んでくれるようで、動画で見せるよりも明るい笑顔で話してくれている。
「えー、姫奈はあの動画も見てくれたんだ」
「も、もちろんです……。中盤で、茜音さんに引っ張られて梨緒さんのシャツのフリルが伸びちゃったのが、すごくおかしくて……」
「えー、そんなことあったっけ。覚えてないよー」
なんといっても、姫奈は他のどのファンにも負けないと自認するほどのマトリアルカフリークだ。過去のどの動画企画のことも細部までよく知っている。茜音と梨緒はここまで生身の視聴者の反応をダイレクトに知る機会はなかなかない。姫奈に過去に公開した動画企画の感想を次々に求めては、聞き入っている。
「姫奈はなんでも知ってるねー。動画に出てる本人の私たちだって、そこまで詳しく覚えてないよ。これからもいろいろ教えてよねっ、姫奈」
隣に座る茜音が笑いながら姫奈の肩に手を回して引き寄せる。姫奈の顔はさらに真っ赤に染まっていく。
「もう、姫奈はかしこまりすぎだよー。もっと気楽に話そうよー」
正面に座る梨緒が微笑んで、ジュースの瓶の口を姫奈に向ける。姫奈は緊張で震える手でグラスを差し出し、注いでもらうと照れながら口に運ぶ。
「で、姫奈って今、好きな人いるの?」
姫奈の肩を抱いたままの茜音が、いきなり別角度の質問をぶつけてきた。姫奈は驚いてジュースに咽せてしまい、ケホケホと咳をする。
「え……、えっ……」
「えー、恋バナは女子会のメインでしょ。ここから嘘は無しだよー」
茜音は無邪気に姫奈の顔を覗き込む。近づく茜音の顔に、姫奈はますます真っ買いになって硬直してしまう。正面の梨緒も興味深そうだ。




