第1話 エルと姫奈
異性の目が怖い。姫奈の心臓の鼓動はさらに早まる。
女性向けの講演イベントだと思って意を決して参加したが、受講者や主催者の中に男性の姿がちらほらと確認できる。
姫奈は巻き気味の肩をさらに丸め、垂れた前髪に隠れるようにうつむき、丸眼鏡のフレームを指で支えながら小走りにロビーを駆ける。
「あっ」
履き慣れない靴のつま先を床に引っ掛け、姫奈は前のめりに浮いた。
顔面から落ちちゃう。姫奈はとっさに目を閉じた。
その時、両方の二の腕を前からグッとつかまれ、支えられた。
「大丈夫ですか」
その声に、姫奈は反射的に目を見開く。
眼前に、見知らぬ顔があった。夜空のような瞳、自分より少し年上に見える顔、そして小綺麗なスーツ姿。転びそうな自分を支えてくれたのは、そんな男性だった。
目が合ってから一瞬の硬直の直後、姫奈の全身にゾワゾワゾワっと鳥肌が立っていく。
「……………っっ!!!!」
姫奈は目の前の男性を両手で強く突き飛ばす。金切り声の高さを超えてかすれた強い息が喉から出て、姫奈は防御本能で丸くうずくまる。
その若い男性は目を丸くしたが、すぐに深く頭を下げて謝罪する。
「し、失礼しました! 申し訳ありません」
異変に気づいた親友の美空が駆け寄ってきた。震える姫奈を抱き締める。
「すみませんっ、この子、男性恐怖症で。すみません。姫奈、行こ」
美空は平謝りする男性に一礼すると、姫奈の背中を会場へと押した。先ほどの男性が何度も謝っている声が背後に聞こえる。
(あの人は悪くないのに……、助けてくれただけなのに……)
姫奈は遠くなっていく背後の謝罪の声を聞きながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。異性が苦手なのは自分の問題だ。それなのに、悪意のない彼を突き飛ばして腫れ物のように扱ってしまった。やっぱり自分はこんな人の集まる場に来るべきじゃなかった。姫奈は後悔の念に駆られる。
美空が姫奈の心情を察して、震える背中を優しくさすった。
「ごめんね、姫奈。私、ついてればよかったね」
「違うの美空、私のせいだから。ほんとごめん……」
幼馴染の同級生・美空は、姫奈の極度の男性恐怖症を深く理解してくれている。引きこもりがちの姫奈を、美空は外出に誘っては守ってくれる。わざわざ姫奈の大学に近い東京の学校に進学してくれた。美空がいるから、姫奈は人の目のある街中にも安心して出かけられる。
この日も、イベント内容に深い興味を持ちながらも外出の勇気が出ない姫奈を見かねて、美空は同行を申し出てくれた。ちょうど近くに祖母の家があるのでついでに宿泊するらしい。
会場の受付担当者が男性だったので、美空は姫奈を気遣って記名をし、その間に姫奈は近くの女子トイレに一人で行っていた。先ほどの男性との接触は、その帰りのほんの短い間の出来事だった。そんな時にまで美空に迷惑をかけたことで、姫奈はいつも以上に自己嫌悪に陥る。
「姫奈、今日やっぱり一緒に帰ろうか?」
「ううん、もう大丈夫だから。一人で帰れるよ。おばあちゃんのお家に行ってあげて」
心配する美空に、姫奈は首を振って答えた。今日の聴講を機に自分の意識を変えたくて、帰りは一人で電車に乗り東京へ戻るつもりだった。せっかく祖母宅に泊まる美空に迷惑をかけたくない。
300人ほどが入るホール。美空のおかげで次第に落ち着きを取り戻してきた姫奈は、前から2列目の席に美空と共に座った。受講者には男性の姿もちらほらあるが、大半が女性の受講者であるイベントであり、席の周囲も女性ばかりだった。姫奈は一安心して深い息をつく。
ずっと憧れ続けたあの人の生身の姿が、これから見られるんだ。そう思うと、次第に姫奈は先ほどとは違う心臓の鼓動の高まりを感じずにはいられなかった。
その人が壇上に姿を現すと、一瞬にして会場中の女性は沸き立つ。
真鳳エル。
株式会社マトリアルカ代表取締役社長。
姫奈にとって、憧れ続けてきた最高の女性だ。
女性向けメディアを軸に様々な事業を幅広く手掛け、女性社会躍進の旗手として注目を集めている若き起業家である。
国内最難関の国立大学出身という非凡の知性。彼女が表紙を飾った経営誌や女性誌が瞬く間に完売をするほどの魅惑の美貌。インタビューなどでの発言が語録となって書籍化されるほどの堅固の信念。
「女性優位の社会の実現」を理念として活躍を広げる彼女は、特に若い世代の女性たちから圧倒的な支持を得ている。
引きこもりとなり勉強だけの人生であった姫奈にとって唯一の楽しみが、マトリアルカの動画配信だった。
真鳳エル社長が主導するマトリアルカの動画チャンネルは、いまや総計で数百万人の登録者数を集める人気ぶりだが、姫奈はまだ初期の頃からの大ファンだった。
エル社長に心酔する姫奈は、そのインタビュー記事を片っ端から集めては読み、エル社長に関する情報は常にインターネットで調べまくってきた。エル社長は年齢非公開としているが、過去の動向から見て実年齢は25歳前後だと思われる。
真鳳エル社長は女性活躍推進イベントなどのゲストに引っ張りだこだ。姫奈は何度も思い切ってエル社長の出演イベントに申し込もうとしたが、都内でのイベントはいつも瞬時に完売する人気ぶりで、予約できたことがない。今回は隣県の女性活躍推進センター主催のイベントであり、会場が都心から離れているので、幸運にも2名分の予約ができた。姫奈はようやくエル社長の姿を生で見る機会を得た。
その日のスーツ姿の真鳳エルは、姫奈の想像以上に気高く眩い美しさだった。
これ以上の均整はないと思えるほどの理想的な長身。ふわりと流れる濁りなき漆黒の長髪。吸い込まれそうな美しさの瞳に、芳香を音にしたような心地よい声。何をとっても非の打ち所がない、完全無欠の麗人だ。
そして、それらを全く鼻にかけない自然体なのも真鳳エル社長の魅力だ。「女性優位の社会の実現」という彼女の信念は、いずれ本当に叶うのではないかと思ってしまう。
真鳳エルが受講席の女性たちを見渡しながら、マイクを持って語る。
「私たちマトリアルカが掲げる女性優位の社会というのは、決して女性を優先しろ、女性を優遇しろということではないんです。あくまでも男女は平等。その上で、女性が男性以上に高い力を発揮して……」
一瞬、エル社長の講話が止まった。
(……えっ?)
姫奈はドキッとした。真鳳エルの視線が姫奈と合った時だったからだ。無言で見つめ合う形になり、姫奈の身体は硬直して急激に体温が上がる。
真鳳エルは我に返って再び話を始めた。実際には2秒か3秒程度だったが、姫奈にはその見つめ合いがまるで永遠のように感じられた。
約2時間のイベントは、姫奈にはあっという間だった。真鳳エルの瞳がいつまでも脳裏をよぎり、もはや他のゲストの女性が誰だったのかも全く覚えていないほど、姫奈は上の空である。
美空の声で我に返る。
「ねえ、さっき真鳳エルさん、姫奈を見て止まらなかった?」
「そうかな、きっと私じゃないよ……」
姫奈は無造作に束ねられた髪を掻いてごまかした。エル社長は姫奈の後方に知り合いを見つけただけかもし
れないし、たまたま言葉が詰まっただけかもしれない。
それでも何秒かは、あの真鳳エルとあの距離で目が合ったんだ。これほどの幸せはない。姫奈は湧き出る笑顔が隠しきれず、丸眼鏡を指で正す。
ご機嫌な姫奈を見て、美空はひとまず安心する。美空は姫奈と別れ、祖母の家へと向かった。
美空のいない一人での帰路。目に焼きついた真鳳エル社長の顔を思い浮かべる幸せがあれば、きっと駅や電車でも発作は出ないだろう。姫奈はそんな自信を胸に、微笑みながら最寄駅へと歩み出した。
「あの」
姫奈の背後から女性の美しい声が聞こえ、姫奈は咄嗟に振り返る。絶句して、鞄を落としそうになる。
そこには、本人が立っていた。あの真鳳エルが。
黒のパンツスーツに、黒のタートルネック。両耳には青く光るイヤリング。壇上に見たままの姿の彼女が、自分に話しかけてきたのだ。
「エ……エル社長……」
「ヒナさん、ですよね?」
「え……?」
姫奈は口をパクパクさせ震えた。あの憧れの真鳳エル社長が目の前で、自分の名前を呼んだ。自分のことなど知るはずもない彼女が、なぜ姫奈の名前を知っているのか。理解が追いつかずあたふたする。
「は、はい、姫奈……、白鷹姫奈しらたか ひなです。あ……エル社長……」
「はい」
「あっ、あのっ……、私……、エル社長にずっと憧れてて……ずっと、会いたくて……」
姫奈は思わず、エルへの憧憬や敬愛の言葉を口にした。しどろもどろになって言葉がうまく繋がらない。自分はいきなり何を言っているのだろうと、姫奈は一気に赤面してしまう。
美しい立ち姿の真鳳エルは、ふっと微笑んだ。
「私も、あなたに会いたかった。ヒナさん」
エルの言葉に、姫奈は心を打ち抜かれたような強い衝撃を受け、全身が炎のように熱くなっていく。姫奈の視線は瞬時に、エルの美しい瞳に吸い込まれていった。
(第2話へつづく)
はじめまして。
広宮比呂乃と申します。
初のオリジナル小説『マトリアルカ・コネクション』を、この度こちらにて連載させていただくことになりました。
当初はキュンキュンのラブストーリーを作りたくて、まずAIにプロットを書かせてみたら、どエロのストーリーをAIが作っちゃって……。
でも周囲のクリエイター陣はそれをやたら面白がるので、思い切ってそのプロットを元に書いていってみました。
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