08 また明日
嵐が去った、と思う。
一番に起き出したわたしは皆を起こさないよう、そっとベッドを抜ける。
階段に張ってあったネットの端を外し、地上ヘ出た。
海は静かに照り輝いていて、空気は洗い流されたような清涼感があった。
荒野は水はけが良いようで、もう白く乾いているところさえある。
屋敷の二階へと上がり、点検したが特に異常はなかった。
雨漏りもないし、壁が割れたりもしていない。
ただ、飛んできた石でも当たったのか、ガラス窓の一部にキズが付いていた。
割れなくてよかったが、割れたガラスはただのゴミになってしまうのだろうか。
今のところわたしが作成したミニチュアという完成物を拡大しているだけだから、廃材というものは出ていない。
人間が生活していけば必ずゴミが出る。
処分方法を考えておくべきだろうか。
……まあたった四人だし、穴でも掘って埋めればいいか。
わたしは考えるのをやめた。
いつの間にか皆も出てきていた。
全員でぼんやりと海を眺める。
「美しいな」という気持を無言で共有していた。
他人同士が同じ方向を向き、同じことを考え、言葉にせずともその気持をわかち合っている。
これを天国といわずしてなんというだろう。
わたしはここでこれまでの人生の傷を癒し、満ち足りた思いで永遠の眠りヘ向かうのだろう。
なんという幸福か。
我々老人はもう疲れきってしまったのだ。
若者二人は何なら傷が癒えたならもう一度新しい旅に出てもいいんじゃないかと思うが、それも無責任な他人の勝手な押し付けか。
年齢が若いというだけで人生の戦いを強要されても困るだろう。
好きにしたらいい。皆で好き勝手しようじゃないか。
「今日のパン、何かな?」
河東さんが袋を取り出した。
わたしもズボンのポケットから袋を出す。
「パン出しの儀」はなんとなく全員で揃った時にやっていた。
一緒に笑いたいからだ。
「えっなんか……ぬめっとした感触がするんですけど?!」
榎木君が悲鳴を上げる。
「そうかな……あっ、なんかピロピロしたものが!」
袋に手を入れた若者二人が謎めいた感想を述べている。
わたしもさっそく手を入れると、柔らかめの、乾いたパンの感触がした。
はて? 細川さんを見ると首を傾げていた。
想像がつかないといったようだ。
「よし、せーの」
わたしは音頭を取り、勢いよくパンを引っ張り出した。
他の三人も合わせて同時に引き出す。
出てきたものは……焼きそばパンだった。
「待て、長すぎる!」
細長い分、体積が足りないとでも思ったのか、洗面器の直径を超えてまだしっぽが袋から出ていない。
袋の口の部分はギューッと絞られたように小さくなっているのが見えた。
そういう感じで出てくるんだな……。
榎木君が何とか全体を取り出して両手に捧げ持った。
新巻鮭のようだった。
「ちょ、これ柔らかいから折れる折れる」
榎木君が慌てて袋に戻す。
わたし達も食べられそうな量だけちぎって袋に戻した。
誰ともなく顔を見合わせ、笑いだす。
あんぱんに続く日本のパンシリーズとでもいうか。
一周するならドイツ系のパンだと思うが、そういう順番も別にないのだろう。
楽しいな。
河東さんが言った通り、全員同じものを同じ量だけ与えられるので、お互いに対して不満も起こらない。
これで人によって違いがあれば、そこに諍いの芽が出るだろう。
なし崩し的にその場でパンを食べながら、河東さんが、
「お婆ちゃんは『かえで』ちゃんっていうんだよ。細川はヨソの人の名前だからね」
と言った。
「お嬢さんは『うりん』ちゃんですって。可愛らしいお名前ね。うりんちゃんって呼んでね」
榎木君に楓さんにウリンちゃんか。
木材シリーズか、と思ったわたしは悪くない。
「あ、僕は大地です」
空気を読んだのか榎木君がついでとばかりに名乗った。
わたしも名乗るのか?
「わたしは下の名前は宏哉だが、アサダの音が好きなんだ」
飴とアダ名を付けられたが、それはまあいい。
嵐の後、わたし達は「アサダ」「楓」「うりん」「大地」となった。
* * *
若返りたいか? というのは、関節の痛みや内臓の不調といった肉体的な衰えが解消されるならば、という意味で、別に顔かたちを過去に戻したいわけではない。
少年時代や青年時代に戻ったところで、わたしは別にイケメンというやつではないし。
何故そういう話になったかというと、うりんちゃんが自分の古傷に対して「正常化」すると傷が消えたというのだ。
それでまあ、わたし達老人組に「正常化」をすると若返るのか? という話になった。
わたしは男だから先に述べたように肉体の不具合が解消されるなら、という観点でしかメリットを感じない。
今のわたしを「正常化」したらただ単に元気な老人になるだけではなかろうか。
だったらちょっと心惹かれる。
楓さんもほとんど同じようなことを言った。
女性なら若返りたいと思うのでは? と内心思ったのだが、楓さんは
「もう生理なんて面倒くさいもの、ごめんですよ」
とキッパリ言った。
うりんちゃんが一瞬ぎょっとしたが、それから「わかる……」としみじみ呟いていた。
「それにねえ、若いといっても十代二十代三十代では全然違いますし、やれ美人だブスだ、体型がどうだ、結婚してるしてない、子供がいるいないと、やかましいのもうんざり。この歳になってやっと自由になったのよ」
まあでも、あちこちガタがきているのは治ったらいいわねえ、と楓さんは笑った。
わたしと大地君はそんなものなのかな、という判っているようで判っていない顔をしていたが、うりんちゃんは楓さんに尊敬のまなざしを向けていた。
うりんちゃんは「いつかみんなが怪我をした時のために、レベルを上げておく」と言った。
そのレベルというのがイマイチわたしや楓さんには判らないのだが、大地君とは頷きあっているので、若者文化なのだろうと思っている。
それからもわたし達は自由に、好き勝手に過ごした。
寝たい時に寝て、起きたい時に起きる。
食べたい時に食べて、やりたいことをやりたいだけやる。
だからといって別に怠惰に無秩序に過ごしているわけではない。
大体朝日が昇れば自然と目が覚めるし、目が覚めたら皆なんとなくバルコニーに集まる。
その時点で起きてない者は昼に様子を見に行くことにしようと思っていたが、今のところ全員朝はバルコニーに集まっている。
そこで「パン出しの儀」をして朝食にし、その日やろうと思っていることを各自述べて散開する。
決めたわけではなく、自然とそうなった 。
わたしは主にそのままバルコニーに残ってミニチュア制作の練習をしている。
作ったものは二階ホールに棚を作り並べている。
飾っているわけではなくただの置き場だ。
飾りたいほどよく出来たものは複製して自室に置いている。
楓さんはわたしの作ったミニチュアを持っていって屋敷の中を模様替えしたり、次のお屋敷のアイディアをまとめたり、うりんちゃんや時には大地君も加わって野球をしたりしている。
アクティブだ......。
うりんちゃんは主に自室でスキルの練習をしているようだ。
「誰にも迷惑かけなくていいから 」と自分の体に残った古傷を「正常化」して消しているらしい。
自分自身を実験台にするようなのは如何なものかと思わなくもないが、嫌な思い出が消えていくことは悪くないので、見守っている。
時々わたしが作ったミニチュア動物シリーズを並べて考え込んでいる。
アニメートの決心がつかないのだろう。優しい子だ。
そうそう、うりんちゃんは絵がめちゃくちゃ上手い子だった。
うりんちゃんが記憶を元に描いた車の絵を参考にわたしがミニカーを作成、楓さんが実物大化、大地君が整備、という流れでもう車が何台かできている。
ただし「ガソリンがないから動かない」と大地君。
他にもオイルやバッテリー液等、足りないものがあるのだそうだ。
「レベルが上がれば何とかなるのかも」と大地君もレベル上げに意欲的になっている。
レベル上げ? の協力として、わたしも記憶を浚って車やトラック、バス、重機にバイクに自転車と片っ端からミニチュアを作ってはガレージに並べ、気付いた楓さんが実物大化、うりんちゃんが判る範囲で正常化している。
大地君は好きなだけ車をいじれて毎日楽しいと笑っていた。
車以外ではお屋敷に豪華なシャンデリアを付けたいそうで、デザインを楓さんやうりんちゃんとも相談し、電気設備についてあれこれ検討している。
そういうのを聞いていると、わたしも意欲的にレベル? とやらを上げていけば新しいひらめきがあるのかもしれないと思い、ミニチュアを増やしドールハウスも作っている。
何でもかんでも二階ホールに置いていたら雑然としてきたので、一階の大階段の横を机や棚で区切って工作コーナーにした。
次のお屋敷を作る時はこうした作業部屋も最初から作った方がいいかもしれない。
夕焼けの頃にまたなんとなくバルコニーに集まる。
好きなパン(の残り)をかじりながら、海面に沈む夕日を眺める。
何度見ても飽きない、美しい景色だ。
集まってはいても同じテーブルにはつかない。
まるでコーヒーショップのテラス席に単に居合わせただけのようだ。
だがここにはこの四人しかいないので、誰かが喋れば誰かが答える。
自分のパーソナルスペースは確保した状態で、ときおり会話も楽しむ。
本当にぜいたくで理想的な空間だと思う。
そんな空気感を大切にしたいと全員が思っている。
これで、もっと人数がいたらちょっとめんどくさいこともあったかもしれない。
うりんちゃんと大地君が加わったことで面倒があるかなと少し懸念していたが、二人とも心は傷ついていても人に優しい、善良な子達だった。
うりんちゃんと大地君に対して、わたし達ジジババは余計なことは何も言わない。
ここには「社会 」はないし、時間制限もない。
陽は昇って沈むが、わたし達の体の成長や老化が進んでいるのか、わたしは疑問に思っている。
まあそれもそのうち判るだろう。
まだこの異郷に来て一か月も経っていないのだ。
先に飛び出していったあの子供達は元気でやっているだろうか。
時折思い出す。
あの子達がこの丘に着地したなら、すぐ人里を探して旅立っただろう。
ここには本当に何もないから。
実にわたし達に似合いの場所だ。
わたしはこの丘に自分の墓を建てることを夢想する。
海が見える高台の墓なんて、ロマンがあるじゃないか。
そこで地縛霊になるのは御免被るが。
やがて優しい闇が来る。
わたし達はめいめいのランプを提げて自室に入る。
おやすみ、とは言うがまた明日、とは言わない。
明日起きてこない者がいてもいいし、皆でパンを出してもいい。
わたしは畳の小上がりに布団を敷いて、今日の眠りにつく。
作りたいものもあるから明日は楽しみではあるが、まあ、目が覚めなくても、それならそれでいいかなとも思う。
ただ、わたしの死体を誰が片付けるのか?? と思うと、やはりちゃんと目覚めたいものだ。
また明日。
次の理想のお屋敷を夢見ながら。
お読みいただきありがとうございました。