牛っぽいですね。
『井戸の中には明らかな違和感があった』
春の風が柔らかく吹く、広大な牧草地。
明るい日の下で牧草を所望する牛たちの群れが静かに揺れている。
その中に、一頭だけ明らかに他の牛と違う色をした牛がいた。
耳の裏から足先に至るまでベージュの色をしている。
そのうえ、ほかの牛たちよりも大きく、力強い体を持っていたのだ。
しかし、その牛がほかの牛と何よりも違うのは、瞳だ。
奥深く、まるで何かを知っているかのように理知的で、人間のような知恵が宿っているかのような様子だった。
牧場を経営する男、高山和夫は娘と二人暮らしである。
男は、毎日早朝に牧場に出ては牛たちの世話をする日々を送っていた。
いずれ出荷される牛たちではあるが、彼にとっては一家畜というわけではなく、家族のような存在だという。
ある日敷地内の鶏舎の修理をしていると、ベージュの牛が近寄ってきた。
「なんだ、手伝ってくれるのか」
和夫はそう声を掛けると、突然ベージュ色の牛が力強く突進してきた。
そのままを破壊すると、今度は奇妙な呻き声を上げ、暴れだしたのである。
こんなことは今までにはなかった。
ベージュの牛は柵を破壊し、その後もひたすら暴れ続けた。
和夫はさすがにまずいと暴れる牛を罠にかけ、やっとの思いで取り押さえた。
だが、抵抗は全く止まず、やむなくベージュの牛を殺処分にすることにした。
一連の出来事を気味悪く感じた和夫はベージュの牛を井戸に捨てることにした。
その後何事もないまま月日は流れた。
高山佐紀は都会が好きだ。
牧場主、和夫の娘である佐紀は幼いころは父の手伝いで牛や動物たちの世話をよくしていたがいつしか都会にあこがれていた。
当然といえば当然で、父、和夫は生まれてから大人になるまでその人生のほとんどを牧場にささげてきた。
外の世界をほとんど知らないのである。
こうして先祖代々牧場を守ってきた一族なのである。
佐紀は大学進学を機に牧場を出て一人暮らしをしたいと考えていたのだが、当然父は猛反対した。
「お前は黙って後を継げばいいんだ」
和夫はいつも不機嫌になりそう言い放つ。
次第に親子の仲は険悪になっていき、食事の時の会話もなくなっていった。
「そもそも、なぜ東京の大学にいきたいんだ」
和夫が尋ねる。
「この村から出たいの」
佐紀は言いづらそうに言う。
少しの間、和夫は黙っていたが、次に口を開くと「話にならんな」 和夫はそう言い部屋を出て行った。
佐紀は学校の帰りに、桜並木の公園に寄り道をしていた。
公園にはぼさぼさの髪にくしゃくしゃの白衣を着た20代半ばくらいの不思議な青年が桜の木に両手を広げ抱き着いていた。
他の桜は満開にもかかわらず、その青年が抱き着いている桜だけ、枯れていた。
青年は佐紀に気づくと「彼はまだ咲きたくないそうです」
と話し始めた。
「彼?」
「そうです、この彼です」
桜の木を指して青年は言った。
内心、佐紀は明らかにやばい人に出くわしてしまったと感じその場を去った。
家に着くと日はとおに暮れていた。
佐紀は家に着くと、物音を立てないよう静かに玄関のドアを開けた。
リビングから不機嫌そうなオーラを放つ和夫を無視し、そのまま階段を上り自室に入りカギをかけた。
佐紀はそのまましばらく机に向かい勉強をしていた。
勉強をしている最中も、学校帰りに出会った、不思議な青年のことが頭から離れなかった。
しばらくするとリビングの方から声がした。
さすがに帰ってきたのを気づいたらしく「今日は飯抜きだ!」
と怒鳴る声が聞こえた。
お腹は空いていたが、佐紀はそのまま宿題を終えると、ベッドに入り眠った。
次の日も学校が終わると昨日の公園に駆け足で向かった。
白衣のあの青年がいた。
「何の病気なんだろう……」
と、青年がぼやいていると「今日も桜の木とおしゃべりかしら?」
と佐紀が呆れていった。
「彼は病気なんだ、早く治してあげないと……」
「木にも病気とかあるのね」
と佐紀は興味なさそうに青年に返した。
その後他愛もない会話をし、佐紀は帰宅した。
帰宅して数十分後に、インターホンが鳴り、下で父が玄関の扉を開けて応対しているのがかすかに聞こえた。
すると、どうにも聞き覚えのある声が聞こえた。
「よく来てくださいました、先生!」
上機嫌に答える父に対して表情1つ変えず、「お邪魔します」と部屋に入る男の声がした。
あの学校帰りに公園で出会った青年である。
「こら、佐紀!降りてきなさい」
そう和夫は階段下から叫んだ。
佐紀は下に降りると青年の顔を見て「あっ」という表情をした。
青年はまた、反応1つせず、「はじめまして、植物の研究と樹木医をしています柳井と申します」
と答えた。
その後父と柳井は酒を交わしながら会話をしていた。
どうやら牧場に生えているメタセコイアが病気に罹っているらしくその診察に来たとのことだった。
「いやぁ、助かりました先生!」
「やはり、葉枯病だと思いますので、感染した枝葉の除去作業を明日から行います、ついでに予防として株間をもう少し確保しましょう」
「先生にお任せしてよかった、もう安心だ、さあさ、もっとやってくださいな」
と和夫が機嫌よくワインを勧めた。
1時間ほど二人はワインを楽しんだ後柳井は帰宅した。
「明日からしばらく先生が来られるから、くれぐれも粗相のないようにな」
釘を刺す父に、生返事で佐紀は答えた。
翌日、学校から寄り道もせずまっすぐ帰宅すると、相変わらずのぼさぼさ髪の柳井が牧場で作業をしていた。
「やぁ」
「柳井さんも相変わらずですね」と」髪の毛を指しながら佐紀は言った。
「あはは、こっちにはあまり興味がなくてね」
と言い、池坊鋏をケースにしまい、横にあるベンチに腰掛けた。
丁度今日の作業が終わったらしい、佐紀の横のベンチに黙って座った。
気が付くと、佐紀は柳井に自分の進路のことやいろいろなことを相談していた。
最終的に話し終えて、どこか諦めかけている表情の佐紀に柳井は諭した。
「若い竹はとっても強くてまっすぐでしなやかなんだよ、そして折れない、だから君も折れずにまっすぐにお父さんに向き合ってみたら?」
そういうと柳井は道具をまとめて帰っていった。
その日の夜、ベッドに入っていると牧場の方から奇妙な叫び声が聞こえた。
最初は無視して布団をかぶっていたが、どうも気になってしまい、薄暗い階段をゆっくりと手すりを伝いながら降りて玄関の扉を開いた。
外に出るとまた叫び声が聞こえた。
「一体なんなの!?」
そういい声のする方を探して牧場を彷徨った。
そして声のする場所を見つけた。
井戸の方からである。
佐紀は怖がりながらも、井戸の方に顔を近づけ穴を覗くと中にはベージュ色の牛の死体が転がっていた。
そして、突然不思議な感覚に襲われた。
忘れていた何かが佐紀に言葉にならない形で伝わってきた。
佐紀はその牛を見ると何かを悟ったようにつぶやいた。
『この人はだれ』
その後、家に帰ろうと暗い牧場を歩いていると途中に父の姿があった。
「こんな時間になにやってるんだ」
酷い剣幕で怒鳴る和夫に謝罪し、その後部屋戻ってベッドに着いた。
翌朝、この日は学校がお休みで朝食を終えると牧場で作業をしている柳井の方へ向かった。
そして昨日の夜の出来事の話をした。
「不思議な井戸ですね、ぜひ私にも見せてください」
興味津々に、食いついてくる柳井に、呆れつつも「じゃあ今夜一緒に見に行きましょうか」
と佐紀は返した。
その夜、柳井と合流し、井戸に行くも叫び声は聞こえず、佐紀が昨日みたベージュ色の牛の死体も跡形もなく消えていた。
時が経ち、世の中は相変わらずの不景気にもかかわらず、牧場は繁栄していった。
和夫の経営手腕というのもあるのだろうが、それにしても村周辺とは一線を期すレベルで発展していった。
それからというもの、和夫は佐紀の進路のことに対しても別人のように寛大になっていた。
「自由にすればいいさ」
佐紀は耳を疑った。
以前までの父からすると到底信じられない発言だった。
まぁそれはそうとしても、好都合なことには変わりない。
父の気が変わらないうちに、さっさと進路を固めて東京で一人暮らしを初めてしまおうと佐紀は考えていた。
高山牧場近くの霧の立ち込める小さな村で奇妙な事件が起こった。
村の郊外に位置する老舗の牧場、「種田牧場」の牧場主のご子息が行方不明になったらしい。
種田牧場の主、種田義徳は古くからこの土地に住んでおり先祖代々牧場を経営してきた大地主の家系だ。
地域の人たちから頼りになると大層頼りにされていたため、今回の事件は村中に不安を巻き起こすことになった。
行方不明になったのは長男の種田翔警察に通報したのは種田義徳本人だった。
「普通に牧場で遊んでいて、日が暮れてきたのでそろそろ戻ろうかと話していたらいなかったんです」
義徳が警察に必死に話していた。
その後警察による捜査が行われたが、牧場周辺にはなんの痕跡も残っておらず、事件性は低いとしてそのまま捜査は打ち切られてしまったらしい。
佐紀は学校が終わり家に帰ると父が小さな牛を連れていた。
「新しい子を仕入れてな、たまには名前でも付けるか」
そう笑顔で言う父に、気味が悪く思いながらも「好きにしたら?」と佐紀は答えた。
その日、突然予定になく柳井が訪ねてきた。
「悪いけどちょっと付き合ってくれるかな?」
柳井はどうやら行きたいところがあるらしく父の許可を得て車で種田牧場近くの村に向かった。
「ここってこの前、行方不明事件があったとか言ってた」
「そう、でも単なる行方不明じゃなく誘拐なんじゃないかって思ってね」
「誘拐?」
あまりに突飛な柳井の発言に佐紀は驚いた。
村に到着すると、もうすでに日が暮れかかっていた。
2人は一通り村を見て回り、聞き込みをした。
種田家の長男、種田翔は近所でも有名な札付きの不良だったらしい。
由緒正しい家系であるにもかかわらずこの醜態なため、義徳も大層頭を抱えていたらしい。
それと今回の事件より少し前に農場を営んでいた田中さんの所のおばあさんも行方不明になっていたらしい。
歳のこともあるし、多少ボケていたため警察も山で遭難したとして」処理していたらしい。
その後二人は事件のあった種田牧場に向かった。
義徳の許可を取り、牧場内をくまなく見て回った。
日はとうに沈んでいた。
牧場内は街頭もなく、懐中電灯をつけないと暗く、まともに歩くことさえままならないほどだった。
そして二人は井戸に向かった。
「なにかあるとしたら、ここしかないね」
柳井はそういうと井戸の石枠に沿うように懐中電灯を当てた。
そして不自然に断ち切られた木の枝を見つけた。
その横に置いてあった、大きな石をどかすと、成人男性の腕一本分くらいの穴が開いていた。
柳井は中に手を突っ込むと、レバーのようなものがあり、動かすとカチッという音がして井戸の中に階段が出てきた。
「どうする行くかい?」そう問いかける柳井に
「行かない選択肢ないわよね?」
と佐紀が答えた。
中は苔が生えており、蜘蛛の巣が張って気味の悪い空間そのものだった。
2人は恐る恐る下に降りると、奥に明かりがあり机があり、そこには誰かの書いた手記があった。
禁忌への道1日目。
まずは、そのものの有用性を確かめるほかなかった。
いきなり生物に投与するのもなんだか気が引けるので公園の木で実験をした。
植物には適合しないらしい。
禁忌への道2日目。
人間に実験を移行した。
上手く牛の形に変えることには成功したが不自然に全身がベージュ色だ。
その後被検体が歳を取りすぎているためか、すぐに死んでしまった。
禁忌への道3日目。
地下に監禁していた妻の存在が娘にばれそうになった。
薬剤を妻に投与した、成功したが、またもや全身ベージュ色の気味の悪い姿になってしまった。
「あぁ、私はなんてことをしてしまった、妻に薬を投与してしまった」
禁忌への道4日目。
ベージュの牛を殺処分にした。
妻を手にかけてしまった。
禁忌への道5日目。
結果は大成功した。牧場は繁盛した、だが同時に人間を牛に変えることをやめられなくなってしまった。
義徳さんの息子を牛に変えてしまった。
手記はこれ以降はまだ書かれていなかった。
「え……これって……」
「全部君の想像している通りだよ、おそらく。横に道がある、先に進もう」
2人は井戸の中をさらに進んでいった。
途中には実験の資料や、怪しげな薬や、モルモットの死骸が多数転がっていた。
そして出口があった。
出口を上り外に出るとそこは、高山牧場の井戸だった。
「種田牧場と、高山牧場はつながっていたのか……」柳井がそういうと後ろから声がした。
「先生、うちのメタセコイアの具合はどうですか」和夫は怪しい笑みを浮かべながら言った。
「えぇ、薬剤も頒布したのでもう大丈夫ですよ」と答えた。
「まったく残念で仕方がありませんよ、柳井先生、そして佐紀、二人には生きていてほしかったしかし知ってしまったのであれば仕方ない……」
「君たちもなってもらおう、種田家の彼のようにね!」そう悪役さながらに和夫は語るのを遮る形で柳井が言い放った。
「今だ!佐紀!」
柳井が目で合図して叫ぶと佐紀は横にあった棒を手に取り和夫に襲い掛かった。
その後柳井も和夫に飛び掛かり二人がかりで抑え込んだ。
その後警察を呼び和夫は誘拐及び殺人の罪で連行された。
人間を牛に変えるという行為自体は、当然前例もなく、適応する法律もないため司法も大層困っていた。
その後和夫は送検中に自らも禁忌の薬剤を飲み牛へと姿を変えてしまった。
そして月日が流れた。
「やった!!!東京大学合格したわ!!」
「おめでとう佐紀さん!」
「これで夢に見た、都会での一人暮らしがはじめられるわ!」
「そのことなんですけど、一人暮らしじゃなきゃダメでしょうか?」柳井は少し恥ずかしそうに問いかけた。
「その、私も、東京のある大学で春から教鞭をとることになっていまして、もしよろしければですね……えっと……」
しどろもどろしている柳井に佐紀は飛びつき「いいに決まってんでしょ!」と答えた。