花菱の夢(9)壱の夢 紅梅①
壱の夢
紅梅①
ごめん、瑞穂。
あんなこと言うつもりやなかったんや。
つい調子乗って言うてもたんや。
本気やなかったのに。
本気やなかったのに。
許いてくれよ、瑞穂。
瑞穂――。
翔は、自分の声で目が覚めた。体中、汗でびっしょりだった。一〇〇メートル全力疾走をした後のように、はあはあと息が粗い。
(やな夢や……)
なぜこんな夢を、と思いかけて気がついた。昨日の男の左目が、瑞穂にシンクロしたからだと。そして、ここは穂積義直の館。四百年前の世界。
起き上がると障子を開けた。外はもう薄明るかった。ひんやりとした日の出前の空気が肌を刺す。
草履を履くと、庭を横切り井戸端に出た。顔を洗った後、今の夢も洗い流そうとするように、うつむいた頭に水をぶっかけた。それでもすっきりしなくて、しばらく頭を垂れたままでいた。
(そやけど、昨日、薫と打ち合えた……)
少しだけ、ほんの少しだけだが、前に進めた気がした。
頭をぶるると振って水を飛ばすと、どこへともなく歩き出した。
西の離れの一角は、穂積家の子供達のための場所で、庭を広く取ってある。周囲は、山茶花と木犀が交互に植えられた生け垣で、他にも、姥女樫に槇、椿や躑躅などが、迷路のように植えられてある。
時代が違っても、樹木の優しさは変わらない。十五にもなって山歩きが好きなのも、樹々が傷ついた心を慰めてくれるからだ。
そっと樹肌に触れると、一本一本、慈しむように撫でて回った。懐かしい友人に会ったような目で見上げながら歩く。その足が止まった。
昨日、薫と試合をした稽古場に人影があった。左京と匂だ。
二人は槍を手に何か語らっている。左京は慈しむように匂を見つめ、彼女もまた、何ともいえない優しい笑みで応えている。一対の雛人形のように寄り添う二人を、昇り始めた朝日が照らしていた。
何人も立ち入ることを許さないようなその雰囲気に、翔は佇んだ。
ふと、匂がこちらを向いた。
「どうなされました」
「いえ、何をしているのかと」
匂はにっこりと、手にした槍を構えて見せた。
「槍の稽古です。左京殿はお上手ですので教えていただいておりました」
「匂さんもするんですか」
「たしなみ程度ですが、自分の身ぐらいは守れるようになりたいと思っております。翔殿はなされぬのですか」
翔は、槍など見るのも初めてだった。よく見ると、そばには薙刀や木刀も置いてある。たおやかな匂がそんなものを振り回す姿は、想像できなかった。
「はあ」
間の抜けた返事を、左京が聞きとがめた。表情まで、さっきと一変している。
「それでは戦場に出られまい」
「なんで? 刀だけじゃだめですか」
「当たり前だ。刀で具足は切れぬぞ」
もの知らずが、と言いたげなその瞳に、翔は少しムッとしたが、素直に自分の無知を認めることにした。
「ほな、刀で攻めようはないんですか」
「ないとは言えぬが……」
左京は、本当に何も知らぬのかと、半ば呆れた様子で、それでも一通りの説明をした。
曰く、具足の継ぎ目を狙えと。
「下に鎖を着込んでいれば刃も通らぬ。一番無防備なのは、やはり足。それから腕」
話を聞いていると、斬り合いというより、まるで殴り合いだ。ということは、リーチの長い方が得だ。
「そいで、槍か……」
「ああ。しかし、一番怖いのは、やはり鉄砲だ。近ければ兜でも貫くと聞く」
「弓は?」
「弓矢も具足には歯が立たぬ。隙を狙わねば」
そう言いながら、木刀を翔に手渡すと、自分も手にした。
「ひとつ、やってみよう」
翔の胸が、ドキンと大きく波打った。昨日の流麗な動きは、目に焼き付いている。
合わせる前から分かっていたが、格の違いは想像以上だ。しかも、翔が具足を着けていると想定して、脇、ふくらはぎ、膝などを徹底して攻めてくる。剣道では、胴着を着けていない部分を攻めることは反則だから、こういう相手とは普通戦わない。
最後に、翔の喉元にピタッと木刀を止め、「今攻めたところが、隙だ」と、息も切らさずに言った。
左京が引くと、翔はヘタッとその場に座り込んだ。打たれた箇所はズキズキするし、体は汗でびっしょりだ。けれども、言葉には言い表せない充実感が、体中を満たしていた。
不思議だった。未来にいたときは、竹刀を握ることに言いようのない恐怖感があった。のに、今は、何のためらいもなく、防具もなしに打ち合える。
昨日の薫との勝負で、何か吹っ切れた気がする。それは、心地よい興奮だった。
「薫も、こうやって左京さんが教えるんですか」
「そうだが、どうかしたか」
「薫の動きが、左京さんと同じやったから」
一瞬、左京の表情が曇ったが、鈍い翔は気づかなかった。
と、何時の間にかそばに来ていた匂が、にこやかに口を開く。
「翔殿は、どちらで剣を学ばれたのですか」
「あ……、どこってないですが」
あまりの急接近に、思わず後ろに下がる。しかし、匂は更に体を寄せてきた。
「随分な遣い手でいらっしゃるから、さぞご高名な方に教わったのでしょう」
「いえ、そんな、あの……」
どう誤魔化そうか、乏しい頭を必死に巡らせながら視線を泳がせた。その片隅を、小さな影が横切った。
「あれっ、子どもがいる」
「ああ、菊千代でしょう」
匂が、そっけなく答える。
「菊千代?」
「私の弟です。菊千代! 隠れてないで出て来なさい」




