花菱の夢(8)壱の夢 橘⑦
壱の夢
橘⑦
その夜、離れに用意された床の中で、翔は眠れずにいた。
一人でいると、一日の出来事がどっと迫ってくる。
元の時代に戻れるのだろうか、家族は今頃何をしているだろうか、いや、そもそも、これは本当に現実なのか、これからどうすればよいのか……。答えは一つも出ない。
(瑞穂は無事やったんやろか)
どうも、彼女はこの時代には来ていないようだ。しかし、自分が急にいなくなったことで、今頃大騒ぎをしているのではないだろうか。
(何で、いっつもケンカになるんやろう)
昇竜寺に行こうと家を出たとき、偶然、瑞穂も隣から出て来た。
話を聞いた瑞穂は目を輝かせ、一緒に行くと自転車の後ろに飛び乗った。
昇竜寺は、雷山の中腹にある。山道に入った頃、瑞穂が声を張り上げた。
「寺へ行くのに、なんで長袖なん」
面倒臭いので答えなかった。
「それ、山歩き用のジャージやろ。試験前やっていうのに」
姉貴面したその言い方にムッときた。
「悪いんか」
「翔は、嫌なことがあると、すぐ、山に逃げる。そいじゃあかんよ。向かって行かな」
「俺が、いつ、逃げたって」
「いつも。剣道かてそうやろ。このままでええと、ほんまに思てんの」
あの一件以来、翔は人に向かうのが怖くなっていた。一年たち、二年たち、徐々に薄れてはきたものの、試合に出る以前の問題だった。
一番言われたくないことを、一番言われたくない奴に言われ、思わず声を粗げた。
「っるっせえな。このオバン」
「だれがオバンやって」
「昭和生まれは、みなオバンや」
ちなみに、翔は、平成元年四月二十三日生まれである。対する薫は、昭和六十一年五月十八日生まれだ。
「いちいちるっせぇんじゃよ。また、怪我させられたいんかぁ」
「アホ」
怒鳴り声とげんこつを背中にくらい、引っ繰り返りかけた。
慌てて片足をついた後ろで、瑞穂が飛び降りるのが分った。
走り去る瑞穂の頬に光るものを見つけ、翔は動揺した。が、追いかけることもせず、といって寺に行く気にもなれず、そのまま山に入った。
(そして、この通りや)
外は月があるのだろう。閉め忘れた雨戸の隙間から光が差し込み、障子の向こうがぼんやりと明るい。けれど、翔の行く末は真っ暗に思えた。
そのころ、館の奥の一室で、義直は一人、盃を傾けていた。
「では、秀吉が密偵を放っているという話は誠なのだな」
閉めた障子の向こうから声がした。
「はい。殿の配下の城下を巡っては、秀吉がもうすぐ出兵すること、そうすれば殿には勝ち目はないから今のうちに寝返った方が得だ、という噂を流しているようです。幾人かは始末しましたが、まだ何人いることやら」
「芝居上手の秀吉のやりそうなことだ。毛利もこれでまんまとしてやられたと聞く」
面白くなさそうに、義直は盃の中身を飲み干した。新たな酒を注ぎながら、更に聞く。
「それで、寝返った者はいるのか」
「今のところはまだ、そのような話は耳にしておりませぬ」
「ふん。まだ分からぬが……。それから、あの若造はどうだ。秀吉の手の者か」
「さあ、どうでしょうか。何も覚えていないと言ってはおりますが……」
「気になることでもあるのか」
答えがしばらく途切れた。義直は、酒を飲む手を止め、じっと返事を待った。
「薫と同じ顔の女人を見なかったかと」
盃を持つ手がわずかに震え、酒が数滴、膝をぬらした。
「まさかとは思いますが、用心するにこしたことはないでしょう」
義直は、こぼれた酒を拭きもせず、それが染みになっていくのを見つめていた。
しばらくして、ふと思い出したように口を開いた。
「そ奴と会ったとき、襲ってきたという者どもは」
「あれは、ただの野党でしょう。二人逃してしまいましたが、小物です。心配はないでしょう」
「若造の仲間で、奴が我等に近づくために打った芝居ではないのか」
「ありえないとも言えませんが、芝居であそこまでするかと。何しろ、一人は片目を失いました」
「ふむ……」
義直は、手の中で盃を揺り動かした。その度に、酒の表面に波紋が広がる。黙ってそれを見つめ思案していたが、思い切ったように残りを飲み干した。
「正体を現すまで様子を見るか……。ともかく、目を離すな」
「御意」
障子の向こうの気配が消えた後も、義直は空の盃を弄んでいた。
同じ頃、村外れのあばら家で、髭の男が痩せた男の目の傷を調べていた。
「ああ、こりゃ駄目だ。もう一生見えないな」
痩せた男が、歯軋りをする。
「あのガキ……」
そして、突然髭面に突っかかった。
「やい、三郎太。おぬしがあいつを仕留めないからだぞ」
「まあまあ、落ち着け、鬼介。ああ見えて、結構な手練だったぞ」
「それでも、ぬしの相手ではなかろう。そうか……、さては、初めからやる気がなかったな」
残った一つの目をかっと見開くと三郎太を睨み据えた。が、彼は平然としたまま、
「それより、傷口を縛っておく方が良い。また出血するかも知れぬぞ」
と晒しを手にすると、細く裂いた。それから、機嫌を取るように鬼介の目に包帯をかけ始めた。じっとしている鬼介に、言い聞かせるように言葉を転がす。
「いいか、相手は南方副将軍の懐刀と言われる奴だ。まともに当たっても勝ち目はない。だがな、次は何か手を打つさ」
「やっぱり、そのつもりでやられた振りをしてたな」
鬼介が、思わず振り返ろうとした。
「動くな、ずれる。それより、お前はあのガキに負けたままでいいのか」
「まさか」
鬼介は、ぺっと床につばを吐いた。
「次は、殺す」
「なら、今はじっとしてろ。戦は近い。そうだ、もっと仲間が必要だ」
凍るような口調に、鬼介は少し脅えたように言った。
「おぬし、本当は何者だ」
「お前と同じ、ただの野党さ」
口元にかすかに笑みをたたえ、三郎太は晒しの端をきつく縛った。
瑞穂は、ふらつく頭をおさえながら立ち上がった。
一体どのくらい経ったのか、雨はとうに止んでいた。髪も服も、すっかり乾いている。
(翔は、どこへ行ったん?)
傍らには、半分焼けた橡の木があった。
(橡……? 栗やと思ったけど)
奇妙な違和感に、瑞穂は記憶が燃えつきぬよう拾い集めた。
あの時、稲妻が目の前に落ちたのと同時に、二人を包む空間が大きく引き裂かれたように見えた。そして、その裂け目に吸い込まれるのを感じた。弾みで、手を放してしまった。翔のシャツを握っていたのに……。
自分の右手をじっと見つめる。開いた手のひらが恨めしい。
(あれは、夢?)
よろよろと、瑞穂は崖に向かった。くらくらしながら下をのぞいたが、翔の姿はどこにもなかった。
(きっと、家に帰ったんや。そうに決まってる)
瑞穂は、ぶるるっと震えた。寒かった。
雨に打たれて熱が出ているのかもしれない。だから、頭がぼーっとするのに違いない。とにかく、家に帰ろう。ここは、何か変だ。
夏の入道雲のようにむくむくと大きくなっていく不安を消したくて、瑞穂は歩き出した。震えが止まらず、手のひらで腕をこする。足元で、落ち葉がかさかさ鳴っている。ふと見上げた桜は、一枚の葉もつけていなかった。慌てて辺りを見回し、息を呑んだ。葉を落としているのは、桜だけではなかった。栗も、榎も、欅も、まるで冬のように……。
(何が起こったん? 今は、夏やないの?)
ものすごい恐怖が、胸を貫いた。知らず知らず、足が速くなる。
「翔――。どこにいるん――。返事して――。翔――」
気づいたときには、夢中で駆けていた。




