花菱の夢(7)壱の夢 橘⑥
壱の夢
橘⑥
「始め」
左京の声で二人は打ち合った。
翔は最初から打ち込まず、慎重に相手の出方をうかがった。同じ過ちを繰り返したくはなかった。
対する薫は、おかまいなしに打ち込んでくる。小柄な体を活かして右に左に飛び回る様子は、さながら牛若丸といったところか。とにかく、身が軽い。そして、その剣捌きは、翔がこれまで経験したことのないもの――ルールに守られたスポーツではないものだった。
しかし、それがかえって翔を落ち着かせた。
(こいつは、瑞穂やない)
なら、遠慮なくぶちのめしてやる。
そのとき、薫が奇妙な動きをした。舞を舞うような、軽やかな身のこなし。
雷山で見た、左京の動きによく似ている。
薫は、一気に勝ちを決めるつもりだった。もし、雷山での左京を見ていなかったら、そうなっていただろう。
しかし、期待の一撃を、翔は難無く返した。それが、薫の焦りを誘った。
(よし、勝てる)
思わず、口の端に笑みが浮かぶ。徐々に反撃の手を強める。それに連れて、薫の焦りが増していく。
(今や)
翔は、ニッと笑うと木刀を振り上げた。薫がバランスを崩し、座り込む。そこに、遠慮なく木刀を振り下ろす。
「面」
と、何か細かいものが目の前に飛んできた。
「あっ!」
反射的に目を閉じたが、砂粒は顔を叩き、幾つかが口に飛び込んだ。思わず手を止め、ペッペと吐き出す。そこに、薫の木刀が飛んできた。
「隙あり」
慌てても遅かった。脇腹に木刀が食い込む。力強いとはいえない一撃だが、胴着を着けていないので痛みがすごい。
「ひ、卑怯やぞ」
翔はおなかを押さえて叫んだが、
「ふん。戦場では卑怯も何もないわ」
と、薫は逆に笑っている。
「武士なら正々堂々と戦え」
翔の言葉に、薫はつーんと横を向く。
左京は、口元を押さえて笑いをこらえている。
しゃがみこんで薫をにらみつけていると、匂が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか」
運動と腹立ちでほてっていた頬が、一層熱くなった。
「あ、こんなぐらい平気やで」
慌てて立ち上がると、袴の裾をはたく。目は薫をにらみつけたままだ。
そこへ、太く、逞しい声が響いてきた。
「なかなか面白い試合であったぞ」
振り返ると、庭の外れの小さな木戸が開き、立派な髭を蓄えた武将が一人立っていた。
「殿。何時おいでに」
薫が恥ずかしそうに頬を赤らめ、口元を抑えた。まずいところを見られてしまったという表情だった。
(この人が、穂積義直……)
翔は圧倒された。もっている雰囲気が、違う。
義直は、このとき数えで五十二歳。背丈はさほど高くないが、鍛え上げた体からは、数々の修羅場をくぐり抜けて来たであろうその才気、鎌倉末期から続いているという当家の威厳やプライド、生まれついての高貴さと度量の大きさ、そういったものが溢れていた。その太い眉と大きな瞳が、薫を真っ直ぐ見据えた。
「武士として卑怯な行いは確かに恥ずべきだ。が、しかし、戦場において策を巡らすのも勝利への道。おろそかにすべきではない」
そう言うと、翔の方に向かい、
「若いながらかなりの腕前。薫より数段上であろう。しかし、二人とも本当の戦場を知らぬ。人を斬ったことのある者とそうでない者とでは、戦いに自ずと違いが出る。心せよ」
と、厳しい言葉で結んだ。
「まあ、ゆっくり滞在なさるがよい」
と付け加え、木戸の向こうに姿を消した。
「殿の許しも出たことだし、そちは今日から我が家の客人。仲良くしよう」
さっきのことなど忘れたように、薫が笑う。
(ったく、子供みたいな奴やなあ)
翔も苦笑いせずにはいられなかった。
「しかし、客人とはいえ、屋敷内をうろつかぬように。この庭を取り囲む生け垣を一人で越えた場合、命の保証はできかねる」
左京の脅かすような口調に、思わず身を縮める。
「夜中に誰かが狙って来るとか……」
「そんな心配はいらぬ。この西の一角は、子供の領分。殿以外の大人は、命のない限り立ち入れぬことになっている」
「殿以外って、匂さんのお母さんは?」
「母上は、私が八つの時に亡くなりました」
匂が、その美しい顔を曇らせ、目を伏せた。翔も、視線を足元に落とした。
「ごめん……」
沈んだ空気を盛り上げようとするように、薫が明るく笑った。
「でも、代わりに左京殿が私たちを育ててくれたではないですか」
「おやおや、私はお二人の母親ですか」
左京が、肩をすくめて微笑んだ。珍しい左京の笑顔に翔も笑ったが、ふと気づいたことがあった。
(二人ってことは、薫も親がいないのか)
しかし、問うのははばかられた。




