花菱の夢(5)壱の夢 橘④
壱の夢
橘④
橋が見えてきた。牛を引いた農民が、ゆっくり渡って行くのが見えた。
その橋を過ぎると、二つの川の合流点がある。右手から左手に流れていく川は、穂積の殿様が掘らせた、人工の川だと伝えられている。波迅川から水を引き、天然の支流と合流させることで、三本の川に挟まれた扇形の土地を造る。そこに館を建てる。つまり、川を堀の代わりにしたわけだ。そのため、もともとある支流は堀川、そこに注ぐ人工の川は新堀川と呼ばれている。農民が渡っていたのは、堀川の方である。
扇形の土地は平成の世にも健在で、中瀬と呼ばれる集落がある。北よりに中瀬小学校があり、隣が翔の家、そのまた隣が瑞穂の伯父、留岡師匠の家になる。
ちなみに、新堀川の北は、波迅川の上流なので「上瀬」、堀川の南は下流なので「下瀬」と呼ばれ、下瀬には、河波中学校やJR河波駅があり、町の中心部を成している。
薫たちは、橋には向かわず、新堀川の上流を目指す。
翔は、何げなく聞いた。
「館は、中瀬のどの辺りにあるの」
左京が、馬上からチラッと翔に目を走らせた。
「すべてだ」
「すべてって」
「中瀬のすべてだ」
左京の左手が、すっと持ち上げられた。翔の目線がその指先を追う。と、思わず、声を上げた。
「あれ、全部……?」
川の向こう側は、ずっと塀が続いていた。この調子で、中瀬のすべてを塀で囲んでいるのだろうか。としたら、ものすごい距離になる。
百メートルほど向こうに、大きな石造りの太鼓橋が見えてきた。
「北の門だ。裏正面になる」
正面は、堀川にかかる南門、そこを出るとすぐ、波迅川の渡しがある。もっとも、館には専用の船着場があるということだった。
想像以上の豪壮さに、翔は言葉を失った。その顔を見て、薫が自慢気に笑った。
「どうだ。これが南方副将軍の館だ」
「南方副将軍?」
翔の口調に、薫は、また不満そうな顔をした。
「本当に物を知らぬ奴だな。南方副将軍というのは、足利義政公より許された穂積家の呼称だ。その折りに、錦の直垂と『義』の一字も一緒に賜った。有名な話だぞ」
「足利義政って、八代将軍の?」
「ああ」
薫は笑ったが、その顔は誇りに満ちていた。
「へえ、たいしたもんやなあ」
翔は、心の底からつぶやいた。戦国大名として名乗りを上げた訳でもない、ただの田舎侍だと思っていたのだ。
一行は、そのまま橋を渡った。槍を抱えた門番が二人、姿勢を正した。門が開かれる。二人の後を翔が入ろうとすると、さっと槍が突き出された。
「この者は?」
その問いに、左京が答えた。
「通せ。わたしの客人だ」
門番はうさん臭そうに翔を見たが、槍を引くと頭を下げた。
「失礼しました。お通りください」
翔は、恐る恐る門をくぐった。槍など、見るのも初めてだ。鋭く光る穂先を突きつけられたらどうやって逃げればよいのか、見当もつかない。
館は、中心部に主とその家族の住む棟があり、周りを使用人や家臣たちの住まいが取り巻いていた。他にも、蔵や馬屋はもとより、神社や馬場まであるということだ。
左京は、西の離れに翔を案内すると、「ここでしばらく待つように」と告げ、母屋の方に行ってしまった。
部屋は書院造りというのだろうか。床の間に違い棚、教科書で見た東山文化そのものだ。足利家と交流が深かったようだから、きっとその影響だろう。
ただし、建物は立派ではあるが、そこは昔の家、気密性が現代とは比べものにならない。透き間風に体が震え、クシャミの三連発で鼻をすする。
鈴のような声がそれに答えた。
「お寒うございますか」
振り返った翔は、またしても息を呑んだ。
一枝の紅梅が春風に匂っている、そう思ったほど美しい少女が一人、座していた。
長い黒髪に縁取られた白い面差し。切れ長の瞳。形のよい眉と唇。頬はふっくらと優しく、市松人形のようだ。
(きっと、姫君だ)
翔は慌てて膝を正した。
「何しろ薄着なもんで」
タイムスリップする前は、夏だったのだ。ジャージの下はTシャツ一枚だ。
「何か、お着替えを用意致しましょうか」
「お願いします」
ジャージ姿はさすがに目立つ。郷に入っては郷に従え、だ。
少女は音もなく立ち上がると、廊下の向こうへ消えて行った。
無駄のない、洗練された上品な動きを、息を止めて見送る。少女が姿を消すと、ふーと緊張が解け、へたるように膝を崩した。
(にしても、いつの間に来てたんやろう)
よほど浮かれていたのか、全く気付いていなかった自分が恥ずかしい。
ほどなく、少女が戻って来た。
大急ぎで座り直す。波打つ心臓を押さえ、少女の差し出す着物を恭しく受け取った。
そこで、翔は動きを止めた。少女が出て行かないのだ。
もじもじ君に変身した翔を、少女はきょとんとした表情で見つめている。
「あの……、着替えたいので、その……、出て行っていただけませんでしょうか」
一瞬、はあっと口を開けた後、少女は可笑しそうに口元を抑えた。
「手伝いをするよう、左京殿に申し付けられたのですが」
「いえ、一人でできます。だから、どうぞ」
翔は懇願した。こんな美少女が見ている前で、とても着替えなんかできはしない。
少女は、またクスッと笑うと、やはり音もなく出て行った。
襖が閉まるや否や、ステージの袖に引っ込んだモデルのような勢いで服を着替えた。脱いだジャージを畳んでいると、左京の声が近づいて来た。
「匂殿、そのような場所で何をしておられるのですか」
「はい、時任様のお着替えが済むのを待っております」
「へえ、奴は肌を見せるのが嫌なのか。よほど高貴な育ちなのだな」
からからと薫の笑い声が聞こえた。
ムッとして襖を開けると、左京と薫と、匂と呼ばれた美少女が入って来た。
「ほーん、よく見ればなかなかの美男子ではないか。少々、女顔ではあるが」
薫が言うと、ほめ言葉には聞こえない。だが、翔は、女みたいと言われることには慣れていた。
なにしろ、翔の睫は驚くほど長い上、ご丁寧にも毛先がカールしてある。お陰で、円らな瞳は一層大きく見えた。優しげな童顔は、「カッワイー」と女子に大人気だし、文化祭で女装したときも大受けだった。
それで、カラッと言い返した。
「薫こそ、女みたいやん」
とたんに、薫の目付きが変わった。
「誰が女だと」
食ってかかるような口調を、左京がいさめた。
「やめぬか、薫」
しかし、薫の白い頬は、怒りのため朱く燃え立っていた。
「いえ、こういうことは、はっきりさせておかないと」
なぜ、薫がそこまで怒るのか、見当もつかなかった。
「そっちが先に言ったんやろ、女みたいって」
言われたくないなら、言わなければ良い。道理である。
しかし、この発言は、火に油を注いだようだ。
薫が刀をすらっと抜いた。
「ならば、勝負だ」
さすがに翔はうろたえた。
「館内で抜くものではない」
左京に注意され、薫は、舌打ちしながら刀を鞘に収める。
ほっとしたのも束の間、左京が宣言する。
「稽古場に行きましょう。刀ならお貸しします。それとも、槍がよろしいですか」
「いや、どっちも、それは……」
「怖いのか、臆病者めが」
「そうやない」
実は、怖かった。
「じゃあ、どうだと言うのだ」
薫は、見下すように胸をそらせた。これまた、瑞穂によく似ている。
(この顔でなければ……)とは言えない。
「せめて、面をつけよう」
「面?」
残念ながら、それは、まだこの時代にはなかった。
「能面をつけてどうしようと言うのだ。おかしなことばかり申さず、堂々と勝負しろ。男であろう」
決定的な一言に、翔は重い腰を上げざるをえなかった。
「なら、木刀で」




