花菱の夢(47)弐の夢 桃⑥
弐の夢
桃⑥
翔は、大きなくしゃみをした。
「まだ、ちょい寒いかな」
そうつぶやくと、ジャージの上に小袖を羽織った。三郎太に教えられた通り帯を締める。鬘を被り、手鏡に向かい紅を引く。
鏡の中の顔は、自分でもドキッとするほど美人だ。にこっと微笑んでみる。
「絶対、薫より色っぽいな。うん、もちろん、瑞穂よりも」
確信をもってうなずく。
「行くぞ。アカデミー主演女優賞」
文化祭では、いつも女役をやらされている。女子も男子も(もちろん教師も)キャーキャー、ピーピー喜んでくれる。が、今日はどこまで騙せるか。
翔は、凛とした風情で立ち上がった。
本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下を、年老いた僧が一人歩いていた。手には、急須と湯飲みを乗せた盆をもっている。
(あれが薬湯か)
周りに人気がないのを確かめて、翔は、後ろから声をかけた。
「もし、お坊様」
僧が足を止め、振り返った。瞬間、当て身を食らわす。同時に、手にした盆を受け止める。盆を床におくと、用意していた紐で坊さんの手足を縛り上げ、さるぐつわをかませる。辺りを見回し、床下に押し込むと、何食わぬ顔で盆を運び出した。
行き先は、書院。匂の控えの間。
部屋の前には、もちろん、見張りがいた。が、翔がにこっと笑って見せるとポッと頬を染め、慌てて下を向いた。
(ちょろいもんやな)
『男はみんな美女が好き』
薫の言葉を思い出す。自然に笑いが込み上げる。それを押さえ、障子の外から声をかける。
「お薬湯をおもちしました」
障子を開けると、正面に匂がいた。鬱陶しそうな顔をして下を向いている。そして、横にはその原因 帯刀が、張り付くように座っていた。
匂奪還未遂事件以来、帯刀は決して彼女を一人にしなかった。自分以外の男は近寄らせず、自分がそばにいられないときは、信頼のおける腰元に侍らせた。もちろん、夜も侍女が不寝の番をする。
四六時中見張られて、匂の神経は苛立っていた。
翔は素知らぬ顔で部屋に入り、障子を閉める。すり足で近寄ると、二人の前に座り、盆をおろした。
そのときだった。
「おや、見かけぬ顔だな」
帯刀の言葉に、心臓が縮み上がった。急須に添えた手が震えるのを、必死にこらえる。
「新入りか。どれ、顔を見せよ」
度胸を決め、とびきり上等の笑顔で科を作る。
「ほお、これは……。なかなかの美形ではないか」
帯刀が、うれしそうな驚きの声を上げる。両眼はパッと見開かれ、なめるように翔を見つめ回している。背筋に寒気が走る。
「これ、名は何という」
上機嫌で、帯刀が問う。
「はい。お時と申します」
その声で、匂がはっと顔を上げた。目と目が合う。その顔が一瞬赤くなり、青くなった。
しかし、帯刀は気づかない。
「うーん。どこかで見たような顔だが」
さっき冷えた背中が、今度は汗でしめっぽくなってきた。
「そうか」
と、帯刀はひざを叩いた。
「匂姫、そなたと雰囲気が似ておるのだ。さてさて、どちらが、より美しいか。姫が紅梅とすれば、そちは桃花のようじゃ」
突然、匂が怒った顔で帯刀を振り返った。
「帯刀様。私、この者と二人だけで話をしとうございます」
「え……」
匂の目には、怒りの色がありありと浮かんでいる。帯刀は、それを、自分の失言のせいだと思った。
「いや、これは、悪かった。そなたのほうが美しいのは分かっておること。そのように怒られると、私としても……」
「私は、二人で話したいと申しておるのです」
有無を言わせぬ口調で、匂は帯刀を遮った。
帯刀は背筋をピンと伸ばすと、大慌てで部屋を出て行った。
障子がぴしゃりと音を立て、人影が消える。それを確認して、匂は翔ににじり寄った。
「なぜ、このような危険なまねを……」
「迎えに来た。一緒に逃げよう」
匂は、やはり、首を横に振った。
「行けません。薫殿に迷惑がかかります」
「薫達とは、もう別れた。俺一人の考えや」
それでも、匂は首を振る。
「私には、することがあります」
「罪を償うってこと?」
ほんの少し、匂の体が震えた。
「そうして、自分で自分を殺すの?」
「犬死はしません」
「ああ、そう。秀吉でも道づれにするわけや」
初めて、匂の表情が揺れた。
たたみ掛けるように、言葉を続ける。
「死ぬことで罪が償えるやろか。俺はそうは思わない。生きてこそ償える。罪って、そんなもんやないやろか」
それは、翔の願いだった。そうであると、信じたかった。匂のためにも、自分のためにも。
「今更秀吉を殺しても、薫は決して喜ばへん。匂さんが薫に生きていて欲しいって思ってるように、薫も匂さんに生きていて欲しいって思ってる。何より、義直殿だってそう願ってるはずや。でなきゃ、左京さんと三人で逃げるように言うはずないやろ」
匂が即座に否定した。
「違います。殿が私に下された命は、左京と二人、薫を守って三河に行くこと。万一追っ手に見つかった場合は、私のみが捕まり、二人を逃がすこと。そして、私は大坂に行き、秀吉を殺すようにと……」
一瞬、絶句した。これが、匂を他の男のものにさせないための命令……。
しかし、それに負けるわけにはいかない。
「けど、義直殿は、菊千代に生きろと命じたんや」
「私にではありません」
「同じや。初めは死ぬように言ってたのに、伝説を聞いて、助かる命ならみすみす捨てるなって」
「伝説?」
「そう。二人の姫と一人の若君が龍に助けられるって。だから、きっと、匂さんにも同じことを言うはずや」
「二人の姫……」
「そう。匂さんと、薫や」
匂の表情が崩れた。長い睫を震わせて、涙が滴り落ちる。
それを指で拭い、肩を抱く。髪を優しく撫でながら、誘う。
「一緒に帰ろう。前に話した、俺の故郷へ」
「桃源郷のようなところへ?」
「ああ。お経に出てくる極楽みたいなところへ」
例によって、翔は「桃源郷」という言葉を知らなかった。「郷」を「経」と勘違いした。そのことに匂は気づいたが、訂正はせず、微かに口元を揺らした。
しかし、返事は野太い声に消されてしまった。
「姫。まだですか」
声と同時に、障子が開いた。と、頓狂な声が上がる。
「どうかなされたのですか」
帯刀が部屋に飛び込んで来た。翔の腕に抱かれているのを見て、匂の気分が悪くなったのかと勘違いしたのだ。
とたんに、匂が翔の腕を振りほどいた。
「帯刀様」
そう走り去る後ろ姿を、呆然と見つめた。
三度目の、拒否?




