花菱の夢(45)弐の夢 桃④
弐の夢
桃④
納屋の前まで来ると、フジノは振り返った。しかし、なかなか口を開かない。
仕方がないので、翔のほうから切り出した。
「話って、何や」
フジノは、ようやく顔を上げた。
「うん。縁談のことなんだけど。相手は、山向こうの名主さんの息子さん。去年、お屋敷に年貢の相談に来たとき見初めたっていうんだけど……。どうしましょう」
翔は、ホッと胸をなでおろした。ドキドキして損した、そんな思いが言葉に溢れ出た。
「どうしましょうって、良い話やん。玉の輿やろ。嫁に行ったら?」
とたんに、フジノは真っ赤になった。声を粗げ、とんでもないことを言い出した。
「やっぱり、翔さんは匂姫が好きなのね」
「な、何や、それ」
頭から水をぶっかけられたようにうろたえた。
が、フジノの口調はいつになく厳しい。
「匂姫に会うために、頭まで丸めて……。隠したって無駄よ。知ってるんだから。この間お屋敷に来たお坊さんも、姫様をさらうために忍び込んだ忍者も、みーんな翔さんだって、知ってるんだから」
ぶっかけられた水に、今度は電流が流される。
「な、何を証拠に……」
焦る翔の目の前に、小さな布の袋が突き出される。匂が作ってくれた、守り袋だ。
百万ボルトの電流が体を貫く。
「中は、時計よ。こんなもの持ってる人なんて、他に誰もいないわ」
手を伸ばしてそれを掴もうとした。が、フジノはさっと引っ込めた。
「返さない」
翔は、途方に暮れた。いったい、この娘は何を要求しようというのか。
「返さない。翔さんがどこにも行かないって、ずっとうちにいてくれるって約束してくれなきゃ、返さない」
「そんなアホな。俺かて帰らな。お母ちゃんが心配したある」
とたんに、フジノの瞳から、大粒の涙がこぼれ出した。
「返さない!」
そう叫ぶと、振り向きもせず走り去ってしまった。
呆然と立ちすくむ翔の背に、瑞穂の声がした。
「良いの? 追いかけないで」
納屋の戸を少し開き、怒ったような顔で立っている。
「何で?」
「何でって、どう見ても、今の子はあんたに気がありそうだったやん」
「えっ」
横から、薫も口を挟んだ。
「私にもそう見えた」
翔はうろたえて、二人の顔を交互に見た。
薫が咎めるような口調で言う。
「だいたい、翔の方から気のあるそぶりをして見せたくせに」
「してへん、してへん」
翔は、ぶんぶん首を横に振る。
「嘘をつくな。綺麗だなんて、聞いているほうが恥ずかしくなるようなこと言って見とれていたくせに」
「あれは、見たまま言っただけで……」
「私には、一度も言ったことがないくせに」
「だから、見たまま……」
いきなり、薫のげんこつが飛んで来た。
「何すんや」
「うるさい。女心も分からぬくせに。これは、フジノの代わりだ」
言いながら、もう一発殴る。
「これは、匂の分。それから、これが……」と、最後に一発、顔面ストレートをかました。
「私の分だ」
にっこり笑う薫に、翔は怒鳴った。
「何でお前の分があるんや」
「不満やったら、もう一発、今度は私が見舞ってやろうか」
瑞穂がはーっとゲンコツに息をかけた。翔は、ぶんと首を横に振った。
「もう、十分です」
その日のうちに帰らねばならぬからと、フジノと男はすぐに引き返した。
帰りぎわ、フジノは下を向いたまま小声で言った。
「匂姫は、近いうちに大坂へ送られます」
翔は声も立てず、ぐっと息を堪えた。
「追いかけるんでしょう」
(ああ、そうか。だから、どこへも行かないでって)
けれど、翔は何も言えず、フジノは、ただ一言「さようなら」と手を振った。
結局、二人はもう一晩、オヨネ婆さんの家で世話になった。
「そうかい、やはり国へ帰られますか。寂しくなりますわ」
婆さんは、本当に寂しそうな顔をした。翔は、キュンと胸が痛むのを感じた。フジノが嫁に行けば、婆さんは一人ぼっちだ。
気持ちを察したように、翔の肩に温かいものが触れた。左京の手のひらだった。
左京はにっこり笑うと、婆さんに向かった。
「誠にずうずうしいお願いですが、傷が治った後も私たちを置いてはいただけませんでしょうか。私はもう、武士を捨てた身。百姓仕事を教えていただければ、何でもお手伝いさせていただきます」
婆さんは、きょとんとした。
照れたように、薫も言った。
「私も、もっといろいろなことを、その、女の営みとやらを教えていただきたいのです」
婆さんは、目に涙を浮かべて、うれしそうに口を開けた。
「ああ、ああ、喜んで」
薫は翔を見上げ、にっと笑った。
「これで、安心して旅立てるだろ」
翔は、力強くうなずいた。
明くる朝、梅の木の下で、翔は別れを告げた。
「本当に、送っていかなくてもよいのか」
「必要ないって」
翔は明るく笑ったが、薫は下を向いていた。涙をこらえているのか、小さな肩が震えている。
「もし、どこか時の狭間で菊千代君に会うようなことがあったら、よろしく伝えて欲しい」
「分かった。きっと伝えるよ」
それでも、薫は顔をあげない。
(まいったなあ)
翔は、頭をかいた。湿っぽいのは嫌いだった。
ふと、横に立つ左京を見上げると、いたずらっ子のように目を輝かせた。
「左京さん。薫はねェ、子供の作り方を知りたいんやって。しっかり、教せたげてや」
とたんに、薫は首筋まで真っ赤になった。左京ですら、そのポーカーフェイスを崩して朱らんだ。翔と薫の顔を交互に見つめ、恥ずかしそうに下を向く。
翔は、それが見たかったというようににやっと笑うと、駆け出した。すべての思い出を断ち切ろうとするように、後も見ずに……。と、
「アホー。待たんかい」
瑞穂の罵声が飛んできた。
(ア、忘れとった)
振り返ったら、薫が見えた。両手を思いっきり振っていた。
翔も、ちぎれよとばかり手を振った。
しかし、翔は帰らなかった。




