花菱の夢(44)弐の夢 桃③
弐の夢
桃③
その夜、翔は左京と月を見ていた。レモンのような形の月は、未完成の優しさがあった。
「匂さんは、怖い人やね」
「う……ん?」
「打ち合わせをしたわけでもないのに、こっちの意図を見抜いて話を合わせてくれる」
「母の血でしょう」
左京の横顔は、皮肉な笑みをたたえていた。
「舞を、三条の舞を覚えていますか」
「舞? ああ、あの技」
「匂は、一度見ただけで舞いました。私でさえ、完全に舞えるようになるには一年かかったものを……。あの子の方が私より、母の血が、三条の血が濃いのでしょう。人を欺き、陥れることを生業とする、三条の……」
「三条の血、か」
翔はしみじみと口にしたあと、思い切って疑問をぶつけた。
「そいで、匂さんの父親は、誰?」
左京が、一度だけ肩を震わせた。
「穂積義直。違う?」
左京はうなずかなかったが、翔は確信していた。
「前にも言うたけど、伝説では『若君と二人の姫』なんや」
そして、それを聞いたときの義直の表情。なぜ、あんなに驚いたのか。
「実際娘が二人いたから、としか考えられへん。ほな、もう一人は誰かっていうと、匂さんしかおらへん」
左京は、相も代わらず覚めた表情で言った。
「お前の母は恐ろしい女と殿はおっしゃられたが、思えばあのとき、殿は既に母の虜になっていたのでしょう。
實継の家に匿ったのも、私が通いやすいようにではなく、ご自分が出入りしても疑われない場所だったから。殿は繁々と實継の元に通い、そして匂が生まれた。殿は夢中になり過ぎたのです。そのため、追っ手に嗅ぎ付けられた。
三年も経っていたのに、櫂殿は諦めていなかったのですね。……否、もしかしたら、刺客を差し向けたのは、桂殿だったのかもしれぬ。嫉妬深いお方でしたから。
今となっては分からぬことだが……」
左京の口調は、判決を言い渡す裁判官のようだった。
「匂は可哀相な子です。なぜ、自分は母に、桂殿に嫌われているのかも分らず、それでも気に入られたいと、聞き分けのよい賢い娘になろうとして……。それなのに、そうするほどに憎まれたのです」
桂が亡くなった次の日、匂は己のしたことを左京に告げた。顔色一つ変えず、淡々と、今朝何を食べたのか語るような調子で。
これが、三条の血なのだ。
左京には、そのことが恐ろしかった。そして、自分もその血を引くものであることが悲しかった。
義直が戻った折りに、左京はその事実を彼に告げた。二人して、罰を受けるつもりで。
義直は黙って聞いたあと、「そうか」と目を伏せた。
「種を蒔いたのは私だ。匂は、それを刈り取っただけだ」
そうして、ただ、桂の冥福を祈った。
その年の春、二人は義直に呼び出された。誰もいない部屋で、畏まって座るその前に、二振りの懐剣が並べられた。鞘には、銀の花菱が刻まれていた。
「これをそなたたち兄妹に与えよう。この花菱は穂積家の紋。そなたたちが私の子である証だ 」
「その言葉が、私たち兄妹にとって、どれほどうれしかったか解りますか。罪を許されたうえ、自分の子として扱ってくださる。親のいない私は、殿のためなら命など惜しくもないと、そのとき以来思ってきた……おそらく、匂も、また……」
「そやから、匂さんは、あんなにも穂積の名前にこだわったんか」
自分の生まれを知られてはいけない、けれど、父の娘として死にたい。匂にとって、「穂積の姫」であることが、彼女と父を繋ぐ唯一のものであり、自分の罪を償う方法でもあったのだ。
「もしかしたら、あの子はずっと、死にたかったのかもしれません。桂殿を殺めてしまったときから」
左京の瞳は、仄かに潤んでいた。それでも表情を崩すまいとする彼の姿が、匂の生き方と重なって見えた。
翔は、ポツンとつぶやいた。
「匂さんは、彼女のお母さんのような道を歩むんやろか」
「そうはならないでしょう」
左京が、以外なほどはっきりと答えた。
「母は、他人を愛したことがなかった。母にとって男は皆、利用するだけの存在だった。だが、匂は恋をした。だから、きっと……」
「恋? 誰に?」
翔の戸惑いを、左京は無視した。
「あの子を見た者は、皆、あの子に心を奪われる。殿も例外ではなかった。母を愛したように、あの子を愛したかったに違いない。我が子なのに……。我が子だから、二人きりになるのを避けていた。わざと冷たくし、障子越しにしか話さなかった。それでも、自分のものだと信じていた。だから、あの子があなたの命乞いをしたことで激怒された。自分を裏切らぬよう、他の男のものにならぬよう、酷い命を下された」
「えっ? 命って?」
聞き返したが、これも無視された。
左京は、ただ、黙って遠くを見つめている。彼が見ているのは、捨てて来た過去だろうか。それとも、はるかな未来だろうか。
「左京さんのお母さんは、ホンマに恋をしたことなかったんかな」
「なぜそう思う」
「石清水って、京都やろ? そんな都会からこんな田舎まで付いてきたなんて、好きやなかったらできへんよ。
それに、追われる身になっても京都に戻らず、ここにいる。左京さんを守るためだったのかもしれんけど、そんなに強いなら、子供連れでも旅できたはずやし。逃げる機会もあったはずや。
離れたくなかったから、ここにいた。そうとしか思えんし。ほな、なんで離れたくなかったかって考えたら、今度は義輝殿が好きになったから、ちゃうんかな」
本気で好きだから、どんな犠牲を払っても一緒にいたい。
しかし、左京は答えなかった。ただ、ほんの少し口元をほころばせ、翔を見つめた。
「おそらく、匂は動かない。けれど、もし、あの娘を動かすことができるとしたら……」 その瞳は、訴えるような、すがるような色を帯びていた。
翔は庭に降り立つと、月光に浮かぶ梅の木を見つめた。すらっと刀を抜き、はっと月に向かって刃を振るった。すべてに踏ん切りをつけるために。
刀を収め、もう一度月を見る。眠れない夜になりそうな、そんな色だった。
「じゃあ、もう帰るのか。自分の国に」
薫が、名残惜しそうにそう聞いた。
「ああ。今度こそね」
「うまく戻れるのか」
「神のみぞ知るってとこかな。祈っててくれ」
カッコつけてポーズをとった翔に、薫はやっと頬を緩ませた。
瑞穂の呼ぶ声が、納屋の方から聞こえてきた。
「翔。名残惜しいんは分るけど、そろそろ出発せんと遅なるで」
「ああ」
そう振り返った翔は、はっと体を硬くした。
人影が二つ、川向こうの山道を登ってくるのが見えた。ここは一番奥の一軒家だから、ここより先に用があるとは思えない。
「誰か、来る」
「追っ手か?」
薫は青ざめた。
「分らん。とりあえず隠れろ」
薫は大慌てで納屋に行くと、他の二人と中に潜んだ。
その間にも人影は近づいていた。大きいのと、小さいのと。木立の間を切れ切れに見える小さい影は、見覚えがあった。
「フジノさんや」
確かに、フジノだった。影は、もう、はっきり人となり、川にかかる丸木橋を渡ろうとしていた。
「婆ちゃん。フジノさんや」
翔の声に、オヨネばあさんは飛び出してきた。
「ただいま、お婆ちゃん」
婆さんは、おろおろしたように聞いた。
「どうしたんや。ヒマでも出されたんか」
「違うよ。お客さん連れてきた。お婆ちゃんに話があるって」
「ひぇ」
婆さんは、身を縮めて翔を見た。
「大丈夫よ。私の縁談を持ってきただけだから」
口ではそう言いながら、表情は硬く強張っている。
「縁談?」
婆さんは、さらに固まった。
「とにかく、話を聞いてあげて。私は翔さんに用があるの」
翔は、思わず自分の顔を指差した。
フジノはうなずくと、脅すように翔を睨みつけた。何か、強いものを秘めたその瞳には逆らいがたく、ついていくしかなかった。




