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花菱の夢  作者: 不動坊多喜


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39/50

花菱の夢(39)弐の夢 沈丁花②

   弐の夢



   沈丁花②


 どれくらい走っただろう。

 やっと馬が歩調を緩めた。左京が手綱を引く。星明かりに、石造りの鳥居が浮かび上がった。

「左京殿。翔は無事ですか?」

 薫の声が、冷んやりした空気を震わせた。

「薫  」

 翔は手を振って、馬から飛び降りた。薫も駆けてきて翔に飛びつこうとした。その間に、左京が立ちはだかった。

「薫」

 いつになく厳しい口調に、薫は動きを止め、身を縮めた。父親に叱られる子供のように、上目使いに左京を見上げている。

左京は硬い表情で、その目を睨む。その怒りは本物だ。

「なぜ、このような危険な真似をしたのですか」

「それは……」

「あなたの我が儘で、翔殿が命を落とすところだったのですよ」

「それは、だから……」

 薫は、言い訳を探すように繰り返す。

「もうええよ。無事やったんやし」

 思わず口を挟んだ翔に、

「よくない!」

と、左京は叩きつけるような声を上げた。

 翔は、ピッと背筋を伸ばして黙ったが、薫は泣き出した。両手を硬く握り締めると、左京の胸を叩いた。

「だって、左京殿は匂殿がお好きなのに」

 泣きながら叩き続ける。

「殿の命で、私などと一緒にならねばならぬ。だから、だから私は……」

 叫ぶように最後の言葉を口にすると、苦しそうに泣き崩れた。握り拳がゆっくり開かれ、左京の胸元をすべり落ちると顔を覆った。指の透き間から、大粒の涙が絶え間無く糸を引く。

 泣きじゃくる少女の頭に、左京はそっと手を置いた。髪を撫でながら、なだめるように言葉をかける。

「誤解ですよ。確かに、匂は私にとって大切な女性ですが。何しろ、妹ですから……」

「妹……?」

あまりの言葉に、翔まで息を止めた。

 薫が、涙でくしゃくしゃの顔を上げる。

「母があの子を産んですぐ亡くなったので、殿が育ててくださったのです」

薫も翔も、しばし阿呆のようにポカーと口を開けたまま、閉じるのも忘れていた。

「じゃあ、匂殿が桂殿を殺めたというのは……」

左京の表情が変わる。

「聞いたのですか?」

薫がうなずき、左京は諦めたようにため息をついた。

「あなたにだけは知らせたくなかったのですが……。こうなっては仕方がない。お話ししましょう。ただし……」

 言葉を止め、険しい表情で薫を正面から見つめる。

「少々つらいお話しかも知れませんよ。それでも良いですか」

 薫がうなずいた。一文字に結ばれた唇が、決意の堅さを物語っていた。

「では、座りましょう。長い話になるでしょうから」

 三人は、左京を真ん中にして、手水鉢の近くに腰を下ろした。瑞穂も遠慮勝ちに、翔の傍に腰を下ろす。

「何からお話するのがよいでしょう。……そう、事の起こりから、私の母の話から。それが順当でしょう」

「左京殿の母君……」

薫も初めて聞く話なのだろう。不安と好奇心の混じった瞳で体を乗り出した。


「私の母は、薫衣(くのえ)といった。その名のとおり、いつも薫衣の香を焚き染めていた」

 そう言うと、左京は、傍らに咲く沈丁花の花を一枝手折った。

「母の好きな花だ。あの人は、薫り高いものを好んでいた。花でも、人でも」

 話すべき事柄を吟味する表情で、左京はその枝を指に挟んでくるくる回した。彼の思い出も、一緒に回っているのが見えるようだった。


「義直殿の父上、義信殿が四十八、私の父、右馬が三十九の時と聞いています。

 十三代将軍足利義輝殿から、「近江から帰京するところを三好長慶らに阻止されているので助けて欲しい」という知らせが届いたのは。

 足利家と親交の深い穂積家は、当然のように兵を率いて京に上りました。父もそれに従いました。

 ところが、軍が京についたとき、義輝殿は和談を図っている最中ということで、一行は石清水八幡宮で成り行きを見届けることにしたそうです。

ところが、そこで義信殿が何者かに殺害されたのです」


「殺害!」

 聞き手は思わず声を上げた。

 左京は静かにうなずくと、話を続けた。


「廊下に落ちていた血まみれの短刀、その家紋から、『犯人は大和の松永久秀の手の者に違いない』と誰もが考えた、そう聞いています。当時、久秀が紀州を手中に収めようと隙を伺っていることは公然の秘密だったから、とも。


しかし、犯人に逃げられたとあっては、紀州、穂積家の威信に関わります。そこで、『境内の大公孫樹への落雷に巻き込まれた』ということにし、軍は紀州に戻りました。


ところが、父が館に戻った夜、宴の最中に母が突如として現れたのです。父に心奪われたので石清水から付いてきたと。

いつから母が軍に紛れていたのか誰も知らず、またその美しさから、岩清水の神ではないかと噂されたとか……。


 父は母を館の別棟に住まわせ、一年後、私が生まれました。母が十七の時です。

 正室の櫂殿は、熊野水軍の長、別当氏の娘です。

櫂殿は美しい御方でした。姿形はもちろん、黒潮の海のようにおおらかで、懐の深い御方でした。兄上と私を分け隔てなくかわいがってくださり、私もお二人を本当の家族として慕っていました。

そう、どこか近寄り難い雰囲気をもつ実の母よりも、櫂殿の方を慕っていたという方が正しいでしょうね。


 転機が訪れたのは、九年後、八月のことでした。

松永久秀が根来に攻め寄せたのです。当然、義直殿は兵を向けました。

 父も出陣し、しかし、帰らぬ人となったのです。


 そして、母が事を起こした。


今でもはっきり覚えています。嵐が吹き荒れる夜でした。

 夜中、母に揺り起こされ、何が起こったかも分からず急き立てられ、寝ぼけ眼をこすりながら躑躅の茂みに身を潜めました。

風に紛れて「庭を探せ」と叫ぶ声が聞こえ、私たちを探しているのだと思い当たり、身を縮めたとき、一人の兵と目があいました。

見つかったと身をすくめた時には、兵は母に首を掻き切られ崩れ落ちていました。

母は死体を茂みに引きずり込み、着物と具足を剥ぎ取り、身につけました。それから私の手を縛り上げ、大声を上げました。

「子供を捕まえたぞ。母親は南に逃げたぞ」

 その声は太く逞しく、誰が聞いても男のもので、皆は南へ急ぎました。


私たちは門番の隙を見て館を抜け出し、北に向かいました。

夜の道をひた走りに走り、休みもせず二里余り駆けたでしょう。私がもう走れないと懇願し、母はやっと歩調を緩めてくれました。


激しく息を切らしながら、初めて問いました。何故逃げるのかと。

 母は、歯ぎしりしながら答えてくれました。

「頭馬を殺ろうと寝所に忍び寄ったら、別の者が寝ておった。あの、櫂という女もしたたかな奴。私の方から仕掛けるのを待っていたに違いない。そういう素振りを露とも見せず。私ともあろう者が、しくじった」


 夜明け前、母は百姓屋に忍び込み、一家を殺し、衣装と僅かな蓄えを盗みました。古着を身につけた母は、どこから見ても水飲み百姓でした。

私は慄き、母はそれをあざ笑いました。

「母が恐ろしいか。これは、三条の生業だ。お前にもその血は流れているのだぞ」


三条の名を聞いたのは、そのときが初めてでした。母は、その血を誇らしげに語りました。公家でありながら男も女も武術に長け、鍛錬を怠らぬと……。後に聞き集めた噂は、散々でした。邪魔な者は自ら始末し、陰の実力者として幕府も朝廷も思うがままに操ってきた、悪行一族だと。最も、その三条も、信長に滅ぼされたようですが……」



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