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花菱の夢  作者: 不動坊多喜


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37/50

花菱の夢(37)弐の夢 椿⑥

   弐の夢



   椿⑥


「さあ、早く行きなさい。また、人が来ましたよ」

 匂の言葉に思わず息を止め、翔は障子に張り付いた。耳を澄ますが、何の気配もしない。いや、微かな、本当に微かな足音が少しずつ近づいて来た。それが、襖の向こうで止まる。

 いきなり襖から槍の穂先が突き出てきた。

間一髪。それをかわす。槍は素早く抜き取られ、少し離れたところから飛び出てきた。しかし、そのときにはもう、翔は格子戸の上にいた。

さらに、二度、三度。穂先が襖に穴をあける。

槍と戦う術を知らない翔は、一か八か、穂先が突き出た瞬間、格子戸を蹴って襖に体当たりした。

バリリと音を立てて襖が倒れる。

「うわっ」

 男が見えた瞬間襖を飛び越え、その脳天に一撃を食らわせた。

 しかし、着地した目の前には、明かりを持った女中が立っていた。

「きゃー」

 驚いた女は、手にしていた燈明皿を翔に向かって投げつけてきた。

 もちろん、難無くかわす。

 油の入った皿は倒れた襖の上に落ち、たちまち燃え上がった。辺りがポワーッと明るくなる。

「逃げよう。ここは危険や」

 薫はまだ動揺していたが、ためらわず床下にもぐりこんだ。

 しかし、翔は未練たらしく匂を振り返った。

 既に火の海となった廊下を背に、匂の顔がはっきりと浮かび上がった。傲慢で、冷徹な笑い。

「さっさとお行きなさい。私は、この程度の火では死にはせぬ」

 鋭い眼差しもきっと閉めた口も、完全に翔を拒絶していた。それなのに、ずっと見つめていたい。

 館に急を知らせる鉦の音が鳴り響く。駆け回る足音と、武器のこすれ合う音が聞こえてくる。

 その中で、薫の声がきっぱりと響く。

「そんな奴、ほっておけ。逃げるぞ」

翔は顔を背けると、床下に飛び込んだ。

 折からの晴天続きに、炎はすでに屋根まで達していた。屋敷中が大騒ぎで、混乱に紛れれば簡単に逃げられそうだった。

「薫。お前は屋敷の人に混じって外に逃げろ」

 薫が、驚いた表情で振り向いた。

「翔はどうする気だ」

「瑞穂を助けに行く」

「なら、私も行く。私の代わりに捕らえられて……」

「ダメだ。来るな」

 翔は、ピシッと遮った。薫の声が固まった。

「女は足手まといか」

「そうやない。して欲しいことがある」

「して欲しい、こと?」

「ああ。もっと騒ぎを大きくして欲しい。瑞穂は北に閉じ込められてるって聞いたから、できれば南で」

「分った。任せろ」

「それから、例の麦畑で待ってろ。絶対戻る」

騒ぎに紛れ、思ったより簡単に北の牢までたどり着くことができた。

見張りの兵は、牢の前を行ったり来たりしている。しきりに東の方角を見上げているのは、火の手が、気になるからだろう。

「ああ、今度は南が」

声を上げ、地団太を踏んでいる。

翔は姿を隠そうともせず、その前に飛び出した。相手は、驚くと同時に倒れていた。

腰につけた鍵束を抜き取り、大声で怒鳴る。

「瑞穂。いるか」

すぐに、返事が返ってきた。

「翔? その声、翔なん?」

「瑞穂。やっぱ、いたんや」

声のする方に駆け寄ると、ガチャガチャ音を立てて鍵穴に合う鍵を探す。

 やっと開いた扉から飛び出して来た瑞穂が、つかみかかって来た。

「あんた今までどこにいてたん。人がこんな目に合うてたっていうのに」

「喧嘩してる場合かよ。さっさと逃げるぞ」

手首を振りほどき走り出す。

「こら、待て」

瑞穂が後を追って来る。

途中、雑兵とすれ違った。

「誰だ。そこを行くのは」

(聞かれて答えるアホがおるか)

「待て、怪しい奴。止まれ」

(言われて止まるアホがおるか)

走る背中を、呼子が追ってくる。

あっという間に、ガシャガシャという具足の音が、幾つも聞こえてきた。

「門を固めろ。逃がすな」

翔はぐいっと瑞穂を引き寄せると、手近な床下にもぐりこんだ。

「ええか。こっちが南で、あっちが北。西と南東には門がある。外に出たら東に回れ。麦畑で薫が待ってる。会えばすぐ分る。二人で馬に乗って逃げろ。ええな」

「翔はどうする気」

「こうする」

言うなり、翔は飛び出した。真っ直ぐ、自分を探す群れの中へ。

「いたぞー。こっちだー」

獣を追うように、雑兵たちが迫ってきた。逃げ場のないのは先刻承知。庭を突っ切り、屋根まで届く樫の木の枝に飛びついた。

 抜き身を引っ提げた男が一番に来た。枝にぶら下がったまま、弾みをつけてそいつを蹴倒すと、反動を利用してよじ登る。そのままずんずん登って行く。男が起き上がった時には、もう、一番上にたどり着いていた。

 そこから屋根に飛び移る。追っ手は木に登ろうにも、具足をつけた重い体はなかなか持ち上がらない。

「屋根に逃げたぞー。梯子を掛けろー」

 その間に、ひょいひょいと瓦の上を飛び歩き、屋根の一番高いところまで来た。

 そこから自分の位置を確認する。今いるところは、館の中心部、母屋の屋根のようだ。左手がさっきまでいた東の棟だろう。明々と炎が上がり、すごい騒ぎで消火活動が続けられている。

燃えている屋根の上を歩く気はない。翔は進路を西に取った。

 その行く手に、一人の男が立ちはだかった。後ろには梯子の先が見える。

「覚悟!」

 男は、掛け声こそ勇ましかったが、足元を払うとあっけなく引っ繰り返り、苦労して登って来た道を、逆に落ちていった。

 しかし、梯子の上では、二人目の男がいましも屋根に移ろうとしている。そこに駆け寄り、梯子を思い切り蹴る。男は、屋根に向かって差し出した手をバタバタ振り回しながら、後ろ向けに倒れていった。

 だが、あちこちで梯子が掛けられたのだろう。雑兵が次々姿を現す。出会う相手を順にやっつけていくしかない。瓦の上を走るのは慣れていたし、身軽な分だけ有利だ。しかし、相手はアリの行列のように、いくらでも湧いてくる。

(瑞穂、薫。頼むから、うまく逃げてくれよ)

 翔は、焦る心に祈った。



瑞穂は、何とか門の外にたどり着いた。言われた通り、東へ回る。近くに住む人だろうか。通りには野次馬が集まりつつあった。

(会えばすぐ分るって言うたけど……)

不安は、即かき消された。自分の九〇%縮小コピーが、心配そうに塀の向こうを見上げていた。

「薫、さん?」

そっと近寄ると、小声でささやいた。相手はビクッと身を引き、瑞穂を振り返った。大きな目が、これ以上ないほど見開かれた。

「瑞穂……?」

黙ってうなずく。

「翔は?」

瑞穂は静かに右腕を持ち上げると、燃え上がる館を指差した。

二人は黙って、それを見つめた。

 突然、ダーンという鉄砲の音が、騒ぎを静めようとするように鳴り響いた。続いて「おおー」というどよめき。

 二人は同時に息を呑んだ。

「帯刀様が打ち取ったぞー」

 館の燃え落ちる音に交じって、そんな声が聞こえてくる。

「翔  」

 同時に声を上げて走りだした。その前に、一つの影が立ちふさがった。





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