花菱の夢(37)弐の夢 椿⑥
弐の夢
椿⑥
「さあ、早く行きなさい。また、人が来ましたよ」
匂の言葉に思わず息を止め、翔は障子に張り付いた。耳を澄ますが、何の気配もしない。いや、微かな、本当に微かな足音が少しずつ近づいて来た。それが、襖の向こうで止まる。
いきなり襖から槍の穂先が突き出てきた。
間一髪。それをかわす。槍は素早く抜き取られ、少し離れたところから飛び出てきた。しかし、そのときにはもう、翔は格子戸の上にいた。
さらに、二度、三度。穂先が襖に穴をあける。
槍と戦う術を知らない翔は、一か八か、穂先が突き出た瞬間、格子戸を蹴って襖に体当たりした。
バリリと音を立てて襖が倒れる。
「うわっ」
男が見えた瞬間襖を飛び越え、その脳天に一撃を食らわせた。
しかし、着地した目の前には、明かりを持った女中が立っていた。
「きゃー」
驚いた女は、手にしていた燈明皿を翔に向かって投げつけてきた。
もちろん、難無くかわす。
油の入った皿は倒れた襖の上に落ち、たちまち燃え上がった。辺りがポワーッと明るくなる。
「逃げよう。ここは危険や」
薫はまだ動揺していたが、ためらわず床下にもぐりこんだ。
しかし、翔は未練たらしく匂を振り返った。
既に火の海となった廊下を背に、匂の顔がはっきりと浮かび上がった。傲慢で、冷徹な笑い。
「さっさとお行きなさい。私は、この程度の火では死にはせぬ」
鋭い眼差しもきっと閉めた口も、完全に翔を拒絶していた。それなのに、ずっと見つめていたい。
館に急を知らせる鉦の音が鳴り響く。駆け回る足音と、武器のこすれ合う音が聞こえてくる。
その中で、薫の声がきっぱりと響く。
「そんな奴、ほっておけ。逃げるぞ」
翔は顔を背けると、床下に飛び込んだ。
折からの晴天続きに、炎はすでに屋根まで達していた。屋敷中が大騒ぎで、混乱に紛れれば簡単に逃げられそうだった。
「薫。お前は屋敷の人に混じって外に逃げろ」
薫が、驚いた表情で振り向いた。
「翔はどうする気だ」
「瑞穂を助けに行く」
「なら、私も行く。私の代わりに捕らえられて……」
「ダメだ。来るな」
翔は、ピシッと遮った。薫の声が固まった。
「女は足手まといか」
「そうやない。して欲しいことがある」
「して欲しい、こと?」
「ああ。もっと騒ぎを大きくして欲しい。瑞穂は北に閉じ込められてるって聞いたから、できれば南で」
「分った。任せろ」
「それから、例の麦畑で待ってろ。絶対戻る」
騒ぎに紛れ、思ったより簡単に北の牢までたどり着くことができた。
見張りの兵は、牢の前を行ったり来たりしている。しきりに東の方角を見上げているのは、火の手が、気になるからだろう。
「ああ、今度は南が」
声を上げ、地団太を踏んでいる。
翔は姿を隠そうともせず、その前に飛び出した。相手は、驚くと同時に倒れていた。
腰につけた鍵束を抜き取り、大声で怒鳴る。
「瑞穂。いるか」
すぐに、返事が返ってきた。
「翔? その声、翔なん?」
「瑞穂。やっぱ、いたんや」
声のする方に駆け寄ると、ガチャガチャ音を立てて鍵穴に合う鍵を探す。
やっと開いた扉から飛び出して来た瑞穂が、つかみかかって来た。
「あんた今までどこにいてたん。人がこんな目に合うてたっていうのに」
「喧嘩してる場合かよ。さっさと逃げるぞ」
手首を振りほどき走り出す。
「こら、待て」
瑞穂が後を追って来る。
途中、雑兵とすれ違った。
「誰だ。そこを行くのは」
(聞かれて答えるアホがおるか)
「待て、怪しい奴。止まれ」
(言われて止まるアホがおるか)
走る背中を、呼子が追ってくる。
あっという間に、ガシャガシャという具足の音が、幾つも聞こえてきた。
「門を固めろ。逃がすな」
翔はぐいっと瑞穂を引き寄せると、手近な床下にもぐりこんだ。
「ええか。こっちが南で、あっちが北。西と南東には門がある。外に出たら東に回れ。麦畑で薫が待ってる。会えばすぐ分る。二人で馬に乗って逃げろ。ええな」
「翔はどうする気」
「こうする」
言うなり、翔は飛び出した。真っ直ぐ、自分を探す群れの中へ。
「いたぞー。こっちだー」
獣を追うように、雑兵たちが迫ってきた。逃げ場のないのは先刻承知。庭を突っ切り、屋根まで届く樫の木の枝に飛びついた。
抜き身を引っ提げた男が一番に来た。枝にぶら下がったまま、弾みをつけてそいつを蹴倒すと、反動を利用してよじ登る。そのままずんずん登って行く。男が起き上がった時には、もう、一番上にたどり着いていた。
そこから屋根に飛び移る。追っ手は木に登ろうにも、具足をつけた重い体はなかなか持ち上がらない。
「屋根に逃げたぞー。梯子を掛けろー」
その間に、ひょいひょいと瓦の上を飛び歩き、屋根の一番高いところまで来た。
そこから自分の位置を確認する。今いるところは、館の中心部、母屋の屋根のようだ。左手がさっきまでいた東の棟だろう。明々と炎が上がり、すごい騒ぎで消火活動が続けられている。
燃えている屋根の上を歩く気はない。翔は進路を西に取った。
その行く手に、一人の男が立ちはだかった。後ろには梯子の先が見える。
「覚悟!」
男は、掛け声こそ勇ましかったが、足元を払うとあっけなく引っ繰り返り、苦労して登って来た道を、逆に落ちていった。
しかし、梯子の上では、二人目の男がいましも屋根に移ろうとしている。そこに駆け寄り、梯子を思い切り蹴る。男は、屋根に向かって差し出した手をバタバタ振り回しながら、後ろ向けに倒れていった。
だが、あちこちで梯子が掛けられたのだろう。雑兵が次々姿を現す。出会う相手を順にやっつけていくしかない。瓦の上を走るのは慣れていたし、身軽な分だけ有利だ。しかし、相手はアリの行列のように、いくらでも湧いてくる。
(瑞穂、薫。頼むから、うまく逃げてくれよ)
翔は、焦る心に祈った。
瑞穂は、何とか門の外にたどり着いた。言われた通り、東へ回る。近くに住む人だろうか。通りには野次馬が集まりつつあった。
(会えばすぐ分るって言うたけど……)
不安は、即かき消された。自分の九〇%縮小コピーが、心配そうに塀の向こうを見上げていた。
「薫、さん?」
そっと近寄ると、小声でささやいた。相手はビクッと身を引き、瑞穂を振り返った。大きな目が、これ以上ないほど見開かれた。
「瑞穂……?」
黙ってうなずく。
「翔は?」
瑞穂は静かに右腕を持ち上げると、燃え上がる館を指差した。
二人は黙って、それを見つめた。
突然、ダーンという鉄砲の音が、騒ぎを静めようとするように鳴り響いた。続いて「おおー」というどよめき。
二人は同時に息を呑んだ。
「帯刀様が打ち取ったぞー」
館の燃え落ちる音に交じって、そんな声が聞こえてくる。
「翔 」
同時に声を上げて走りだした。その前に、一つの影が立ちふさがった。




