花菱の夢(36)弐の夢 椿⑤
弐の夢
椿⑤
人気が全くなかっただけに、翔は焦った。咄嗟に刀を抜き、受け止める。相手の武器は短刀らしく、体が触れ合うほど接近した。闇の中で、甘い梅の花の香りが翔を包んだ。
「匂さん」
思わず、口からその名がこぼれた。
その声に、相手はさっと身を引いた。
「お前は……?」
「俺や。翔や」
そうささやくと刀を収め、そっと声のほうに近寄った。
匂の体から戦意が抜け落ちていくのが気配で分かる。闇の中から差し伸べられた優しい手が、翔の体に触れる。
「確かに、この妙な手触りは翔殿の衣装……」
匂の言葉に、ガクッときた。確かにこの時代、世界中を探しても、ポリエステルのジャージを身につけているのは翔一人に違いないが……。
もう少し感動してくれてもいいのにという願いをよそに、匂は言葉を続けた。
「なぜ、ここに?」
それには、薫が答えた。
「助けに来ました。一緒に逃げましょう」
「薫! まさか……」
匂が小さく叫んだ。
「その、まさか、や。さ、早う」
ジャージに触れていた柔らかな手を握り締めた。が、それは振り払われた。
「私は、行きませぬ」
あまりに意外な返事に、二人は自分の耳を疑った。
「私は、このまま穂積匂として死にとうございます」
隣にいた薫の体が硬くなるのが分った。
「匂殿は、知っておられたのですか」
匂は、覚めた口調で答えた。
「ええ。父上……、いえ、本当は殿とお呼びするべきなのでしょうね。殿は、あなたのために命を投げ出すようにと私に命じたのです」
「そして、平井家もそのことを知っている」
「本当かどうか、確証は持っていません。けれど、その噂を利用しようとしています。だからこそ、あなたは来るべきではなかった」
「しかし、別の人が捕まったのでしょう。きっと、殿が、もう一人身代わりを用意してくれていたのですよ」
「それは違います。あの女は殿とは何の関係もない、全くの人違いです。ただし、私が橘薫と認めたから、みんなはそう信じています」
「どうして、そんなこと」
「分りませんか。これで、あなたを追う人はいなくなるのですよ」
「でも、その人は」
「瓜二つに生まれついたのが不運だったのです」
思わず、翔は割り込んだ。
「瓜二つ?」
「はい。髪が短いのと背が高いのを除けば……。そういえば、奇妙な衣装を身につけておりました。上は浅黄色の被りで、下はぴったりとした厚手の股引で……」
顔面から血の気が引いていくのが分った。震える唇から、一つの名前がこぼれ出た。
「瑞穂……」
「あっ」と、匂が小さな声を漏らした。
「まさか、翔殿の」
「冗談やないでェ」
思わず叫んだその口を、薫の手が塞いだ。翔もはっと体を縮めた。
パタパタという足音が、襖の向こうに近づいてくる。
薫は慌てて床下に飛び込んだ。
出遅れた翔は、仕方なく部屋の隅に張り付いた。すると、そこに梯子のような物があったので、上れるところまで上った。
匂は布団の上に戻ると、襖の方を向いて座り込んだ。
襖が開かれ、朝日のように光が差し込んできた。ほんの蝋燭一本分の明かりがこんなに眩しいとは!
目を細めて明かりからそらす。その目を、再びかっと開く。
壁に映った匂の影が、大きな黒い十字架を背負っている。いや、よく見ると、それは格子戸の影だった。
(座敷牢!)
暗くて気づかなかったが、部屋全体が牢になっていた。そして、自分はその格子の一番上にいた。
細く開けた襖の間から、がらがら声が聞こえてきた。
「誰かいるのか。声がしたようだったが」
「何もございません。恐ろしい夢を見ただけです」
「夢?」
疑うようなせせら笑いが聞こえた。
「はい。高穂城が燃え落ちる夢でございます。炎の中で、父上が私に申されたのです。この恨みを忘れるな、と」
匂の口調は呪いをかける陰陽師のようだった。
「はは……」
案外気の小さい男らしく、笑い声がほんの少し引きつっていた。
そのまま立ち去るかと思ったが、「おやっ」と言うと、鍵をがちゃつかせ始めた。どうやら、畳がずれているのに気づいたらしい。入ってこられたら、一目瞭然だ。
格子戸が開き、燭台と男の影が牢内に入ってきた。その背中目掛けて飛び下りると、握った両手で思い切り後頭部を叩きつけた。
ぐうの音もなく、男は気を失った。床に落ちた火を踏み消すと、部屋はまた、闇に包まれた。
ほうっと息をつく傍らで、匂が冷たく言い放った。
「お二人とも、もうお帰りなさい」
「匂殿?」
「私は、このままが良いのです」
「どうして?」
薫の声が上ずった。
「私は生まれたときから、穂積の娘として育てられました、表向きは。けれど、裏では、人を騙し、殺める、そんな術を仕込まれて育ったのです。舞もそう。あなたは教えてもらえないと駄々をこねていましたがね」
匂が、少し笑った。
「こんな館、その気になればいつでも簡単に抜け出せる。そうしないのは、穂積匂でいたいからです。ここを出れば、私はただの匂う草になる。そんなこと、絶対、嫌です」
その言葉は憎しみに満ちていた。薫への、そして、自分の運命への。逆らうことなど考えられないほど強い意志を秘めた言葉に、翔はたじろいだ。
それでも薫は諦めず、最後の切り札を出した。
「そして、好きでもない男に抱かれるのか?」
「そうやで。左京さんが待ってるで」
二人は、これできっと匂が動くと信じていた。
が、予想に反して、彼女は突然笑い出した。声を殺しながらもひとしきり笑い、少しむせた後、勝ち誇ったように言い放った。
「あんな男、いつでもあなたにあげましょう」
一瞬の沈黙の後、震える声がした。
「どういうことですか」
「左京が好きなんでしょう。薫」
闇の中でも、薫が凍りつくのが分かった。かまわず、匂はしゃべり続ける。
「私は強い男が好きなのです。もちろん、左京だって弱くはない。けれど、私の思うお方はただ一人、……そう、穂積義直殿」
翔は、自分も凍りつくのが分かった。脳天をぶち割られるというのは、きっとこんな気分だろう。
「ああ、何時からでしょう、あの方を愛しいと思い始めたのは。たぶん、そう、あのバカな女を、あの方の妻だった女を井戸に突き落としたときから」
「か、か、桂殿を……」
かさかさの声が、空気の隙間に消える。
「ああ、そう言えば、あなたの生みの母でしたね。お母様の胸に抱かれることもなく、お可哀相なこと。最も、私も母の胸など知りませぬが。何しろあの女ときたら、私を抱いてくれるどころか、泥棒猫呼ばわりしたのですよ。あなたから父と母を盗んだと。殿がお決めになったことですのに、失礼な。だから、もう二度とそんな口が利けぬようにしてあげたのです」
「ち、父上はご存知なのか」
「もちろん」
「なんの咎めもなかったのか」
「もちろん。かえって私をいたわって下さいましたわ。そう、その時から、殿のお姿を拝見する度に、胸のときめきを感じるようになった。それなのに」
声の調子が急にとげとげしくなった。
「あの方にとって大切なのは、結局あなた。そのために命を落とされて……。あなたこそ死ねばよかったのです」
薫も翔も、もはや言葉をもたなかった。
一体自分達は、何のためにここにいるのだろう。危険を冒してまで……。




