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花菱の夢  作者: 不動坊多喜


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36/50

花菱の夢(36)弐の夢 椿⑤

   弐の夢



   椿⑤


人気が全くなかっただけに、翔は焦った。咄嗟に刀を抜き、受け止める。相手の武器は短刀らしく、体が触れ合うほど接近した。闇の中で、甘い梅の花の香りが翔を包んだ。

「匂さん」

 思わず、口からその名がこぼれた。

 その声に、相手はさっと身を引いた。

「お前は……?」

「俺や。翔や」

 そうささやくと刀を収め、そっと声のほうに近寄った。

 匂の体から戦意が抜け落ちていくのが気配で分かる。闇の中から差し伸べられた優しい手が、翔の体に触れる。

「確かに、この妙な手触りは翔殿の衣装……」

 匂の言葉に、ガクッときた。確かにこの時代、世界中を探しても、ポリエステルのジャージを身につけているのは翔一人に違いないが……。

 もう少し感動してくれてもいいのにという願いをよそに、匂は言葉を続けた。

「なぜ、ここに?」

 それには、薫が答えた。

「助けに来ました。一緒に逃げましょう」

「薫! まさか……」

 匂が小さく叫んだ。

「その、まさか、や。さ、早う」

 ジャージに触れていた柔らかな手を握り締めた。が、それは振り払われた。

「私は、行きませぬ」

 あまりに意外な返事に、二人は自分の耳を疑った。

「私は、このまま穂積匂として死にとうございます」

 隣にいた薫の体が硬くなるのが分った。

「匂殿は、知っておられたのですか」

匂は、覚めた口調で答えた。

「ええ。父上……、いえ、本当は殿とお呼びするべきなのでしょうね。殿は、あなたのために命を投げ出すようにと私に命じたのです」

「そして、平井家もそのことを知っている」

「本当かどうか、確証は持っていません。けれど、その噂を利用しようとしています。だからこそ、あなたは来るべきではなかった」

「しかし、別の人が捕まったのでしょう。きっと、殿が、もう一人身代わりを用意してくれていたのですよ」

「それは違います。あの女は殿とは何の関係もない、全くの人違いです。ただし、私が橘薫と認めたから、みんなはそう信じています」

「どうして、そんなこと」

「分りませんか。これで、あなたを追う人はいなくなるのですよ」

「でも、その人は」

「瓜二つに生まれついたのが不運だったのです」

思わず、翔は割り込んだ。

「瓜二つ?」

「はい。髪が短いのと背が高いのを除けば……。そういえば、奇妙な衣装を身につけておりました。上は浅黄色の被りで、下はぴったりとした厚手の股引で……」

顔面から血の気が引いていくのが分った。震える唇から、一つの名前がこぼれ出た。

「瑞穂……」

「あっ」と、匂が小さな声を漏らした。

「まさか、翔殿の」

「冗談やないでェ」

思わず叫んだその口を、薫の手が塞いだ。翔もはっと体を縮めた。

パタパタという足音が、襖の向こうに近づいてくる。

薫は慌てて床下に飛び込んだ。

出遅れた翔は、仕方なく部屋の隅に張り付いた。すると、そこに梯子のような物があったので、上れるところまで上った。

匂は布団の上に戻ると、襖の方を向いて座り込んだ。

襖が開かれ、朝日のように光が差し込んできた。ほんの蝋燭一本分の明かりがこんなに眩しいとは!

目を細めて明かりからそらす。その目を、再びかっと開く。

壁に映った匂の影が、大きな黒い十字架を背負っている。いや、よく見ると、それは格子戸の影だった。

(座敷牢!)

暗くて気づかなかったが、部屋全体が牢になっていた。そして、自分はその格子の一番上にいた。

細く開けた襖の間から、がらがら声が聞こえてきた。

「誰かいるのか。声がしたようだったが」

「何もございません。恐ろしい夢を見ただけです」

「夢?」

疑うようなせせら笑いが聞こえた。

「はい。高穂城が燃え落ちる夢でございます。炎の中で、父上が私に申されたのです。この恨みを忘れるな、と」

匂の口調は呪いをかける陰陽師のようだった。

「はは……」

案外気の小さい男らしく、笑い声がほんの少し引きつっていた。

そのまま立ち去るかと思ったが、「おやっ」と言うと、鍵をがちゃつかせ始めた。どうやら、畳がずれているのに気づいたらしい。入ってこられたら、一目瞭然だ。

格子戸が開き、燭台と男の影が牢内に入ってきた。その背中目掛けて飛び下りると、握った両手で思い切り後頭部を叩きつけた。

ぐうの音もなく、男は気を失った。床に落ちた火を踏み消すと、部屋はまた、闇に包まれた。

ほうっと息をつく傍らで、匂が冷たく言い放った。

「お二人とも、もうお帰りなさい」

「匂殿?」

「私は、このままが良いのです」

「どうして?」

 薫の声が上ずった。

「私は生まれたときから、穂積の娘として育てられました、表向きは。けれど、裏では、人を騙し、殺める、そんな術を仕込まれて育ったのです。舞もそう。あなたは教えてもらえないと駄々をこねていましたがね」

 匂が、少し笑った。

「こんな館、その気になればいつでも簡単に抜け出せる。そうしないのは、穂積匂でいたいからです。ここを出れば、私はただの匂う草になる。そんなこと、絶対、嫌です」

 その言葉は憎しみに満ちていた。薫への、そして、自分の運命への。逆らうことなど考えられないほど強い意志を秘めた言葉に、翔はたじろいだ。

 それでも薫は諦めず、最後の切り札を出した。

「そして、好きでもない男に抱かれるのか?」

「そうやで。左京さんが待ってるで」

 二人は、これできっと匂が動くと信じていた。

 が、予想に反して、彼女は突然笑い出した。声を殺しながらもひとしきり笑い、少しむせた後、勝ち誇ったように言い放った。

「あんな男、いつでもあなたにあげましょう」

 一瞬の沈黙の後、震える声がした。

「どういうことですか」

「左京が好きなんでしょう。薫」

 闇の中でも、薫が凍りつくのが分かった。かまわず、匂はしゃべり続ける。

「私は強い男が好きなのです。もちろん、左京だって弱くはない。けれど、私の思うお方はただ一人、……そう、穂積義直殿」

 翔は、自分も凍りつくのが分かった。脳天をぶち割られるというのは、きっとこんな気分だろう。

「ああ、何時からでしょう、あの方を愛しいと思い始めたのは。たぶん、そう、あのバカな女を、あの方の妻だった女を井戸に突き落としたときから」

「か、か、桂殿を……」

 かさかさの声が、空気の隙間に消える。

「ああ、そう言えば、あなたの生みの母でしたね。お母様の胸に抱かれることもなく、お可哀相なこと。最も、私も母の胸など知りませぬが。何しろあの女ときたら、私を抱いてくれるどころか、泥棒猫呼ばわりしたのですよ。あなたから父と母を盗んだと。殿がお決めになったことですのに、失礼な。だから、もう二度とそんな口が利けぬようにしてあげたのです」

「ち、父上はご存知なのか」

「もちろん」

「なんの咎めもなかったのか」

「もちろん。かえって私をいたわって下さいましたわ。そう、その時から、殿のお姿を拝見する度に、胸のときめきを感じるようになった。それなのに」

 声の調子が急にとげとげしくなった。

「あの方にとって大切なのは、結局あなた。そのために命を落とされて……。あなたこそ死ねばよかったのです」

 薫も翔も、もはや言葉をもたなかった。

 一体自分達は、何のためにここにいるのだろう。危険を冒してまで……。





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