花菱の夢(34)弐の夢 椿③
弐の夢
椿③
薫の生理が終わった頃、翔は一人、婆さんの使いで平井家を訪れた。
館は、前に来たときに比べ、何やら慌しい空気が漂っていた。
「何かあったんかい」
さりげなくフジノに聞くと、興奮を抑えきれない表情で教えてくれた。
「穂積の殿様の、本当の姫君が見つかったんですよ」
「何やって!」
抑えきれず、叫び声を上げた。フジノが、シーッと指を立てる。
すごい速さで脈打ち出した体を辛うじて抑え、声をひそめる。
「そんなはずないやろ」
「それが見つかったんですよ」
フジノは好奇心いっぱいの表情で、翔を物陰に引っ張り込んだ。
「やっぱり、匂姫は身代わりだったんですね。穂積の殿様が、ご自分の娘を助けるために密かに取り替えたんですって。最も、匂姫は、自分が本物だって言い張っているそうですけど」
「その人は、いつ見つかったの?」
「昨日ですよ。穂積家の屋敷後をふらふらと歩いているのを、見回りの兵が見つけて捕らえてきたんです」
「その人は、今どうしてるん? フジノさんも会った(おうた)ん?」
フジノは、首を横に振った。
「北にある牢に閉じ込められたって聞きますけど……。よそでは内緒にして下さいね」
帰り道、峠の手前で町を見下ろした。幾重にも重なる屋根の向こうに、一際高く、平井家の屋根瓦が光っている。
「どういうことやろう」
翔の貧相な頭では、さっぱり訳が分らない。
とにかく、かえって薫に報告せねば。
翔は、長距離ランナーに変身した。
話を聞いたときの薫の驚きようは、予想以上だった。両手で自分の着物の胸のあたりをつかみ、その手は小刻みに震えていた。首でも締められたように顔面は蒼白になり、震える唇からは泡でも吹きそうだった。
それも当然だろう。
穂積家の本当の娘は、薫なのだ。代わりに捕まったのは、一体誰なのか? 見当もつかない。もしかしたら、義直は、匂の他にも身代わりを用意していたのだろうか? ありえない、とも言えなかった。
二人は水汲み場の土手に座ると、川面を見つめた。
どれくらいそうしていただろう。ようやく考えがまとまったのか、薫が口を開いた。
「偽者であろうと本物であろうと、捕まった誰かは匂殿の代わりに大坂送りになる。そして、匂殿は帯刀とかいう奴の妻になる。そうなる前に助け出そう」
ぐっと息を詰めたまま、薫を見つめる。その瞳は、決意に満ちていた。真っ直ぐで、真剣で、妥協も甘えもない色。うなずかざるをえなかった。
「分った」
薫の頬が、ちょっと緩んだ。
「ほな、月のないうちに」
「今日」
「今頃出かけたら、婆さんが心配する」
「じゃあ、明日」
「いや。準備が必要だ。明後日なら、どうだ?」
「分かった。そうしよう」
うなずくと、左手に続く竹薮を見た。忍び込む方法は考えてあった。問題は、匂が館のどこにいるか、そして、彼女を連れてどうやって逃げるか。
風が起こり、竹の細い葉がさわわと波のような音を立てて揺れた。
「明後日……」
翔は、小さく体を震わせた。
「あれは、本当に橘薫でしょうか」
三郎太の言葉に、帯刀は目をむいて言い返した。
「では、誰だと申す。あの目も鼻も口も、義直とそっくりではないか」
「確かにそうですが、私が雷山で見た薫は、もっと小柄でした」
「育ち盛りだ」
「男ならともかく、女子が高々十月であれほど大きくなるものでしょうか」
「うるさい」
帯刀はつばを飛ばした。
「お前は、自分が手柄を立てられなかったものだから、そのようなことを申すのであろう」
その言葉は、三郎太のプライドを傷つけた。無言で頭を下げると、その場を退出した。
平井家の門を出ても、まだ怒りは収まらない。
(こんなことなら、薫が義直の娘だなどと、噂を立てねば良かった)
帯刀にとって、噂の真偽も人物の正否も関係ない。関心は匂のみ。
(匂を連れてきたのは、誰だと思ってるんだ)
自分は、帯刀の雇われ者ではない。焼け落ちる館から連れ出したとき、そのまま秀吉に差し出してやればよかった。女好きの秀吉は、さぞ喜んで褒美をくれただろう。
とはいえ、実際は、あの女を大坂まで一人で連れて行くのは無理だっただろう。何しろ、捕まえるときにも随分てこずったのだ。すごい手練だった。なぜか、途中で向こうが戦う気をなくしたから捕まえられたようなものだった。
(帯刀にも秀吉にも、あの女はもったいない。左京ほどでないと、御すのは難しかろう)
下を向き、考えながら歩いていると、後ろから足音が近づいてくる。急いでいるのか、駆け足だ。道を譲ってやろうと山側に体を寄せ、足音を振り返った。随分、汚らしい格好の少年だ。が、見たとたん、思わず息を呑んだ。
(まさか)
知らぬそぶりで横を向き、自分の顔は見られぬように、すれ違う横顔を観察する。
(やはり! あのときの小僧)
あの後、小僧は穂積家の客人として迎えられた。そして、菊千代を守って、共に姿を消した。どんな目くらましを使ったのかしらないが、まんまと逃げ果せたということ。
つまり、菊千代は、今も一緒にいるはず。では、鬼介はどうなったのか?
三郎太は、見つからないようこっそり後をつけ始めた。
何も知らない少年は、えんえんと走り続ける。足取りはほとんど遅くならず、その脚力と体力に驚きを感じた頃、ようやく終点らしき家が見えてきた。少年は歩調を緩め、迎えに出てきた少年と、家の前で立ち話を始めた。
その少年の顔を見て、三郎太は飛び上がるほど驚いた。
(橘薫!)
こっちこそ、本物だ。
捕まえよう。
一瞬思ったが、思いとどまった。近くに、左京がいるはずだ。
それに、ひょっとすると、帯刀に一泡吹かせてやれるかもしれない。
(とりあえず様子を見るか)
三郎太は、くつろぐように藤の木にまたがった。
瑞穂は、膝を抱えてうずくまっていた。
縄は解かれたものの、縛られた後が痣になって残っている。
一度、質素な食事が出てきたが、痣が疼いて箸がうまく使えなかった。
時折やって来る、見張りの手燭が格子を浮かび上がらせる。それ以外は、闇だ。
どうやら、自分はタイムスリップしたようだ。多分、戦国時代に。
何とか、そこまでは理解できた。
橘薫という人に間違えられた自分が、この後どうなるのか。誰も、何も、言ってはくれない。
ここにいるのは怖い。目を閉じても、少女の氷の目が自分を貫く。
逃げ出したい。が、情報が少なすぎて、動くことも怖い。
縄の跡が疼き、思考を鈍らせる。
(全部、翔のせいだ)
できることが見つからないから、心の中で翔を罵倒する。
(あいつ、今どこにいる? 見つけたらぶん殴って、蹴り倒して、それから……)
それだけが、自分を保つ唯一の方法のように。




