花菱の夢(33)弐の夢 椿②
弐の夢
椿②
「おい、どうしたんや」
駆け寄ると、薫の体を支えるようにして顔をのぞき込んだ。薫は真っ青な顔をして、小刻みに震えている。
「分からない。ただ、下腹が重くて……」
「下腹……?」
嫌な予感がして、そっと袴の裾をめくる。思った通り、血は足を伝って流れている。
(これが、ウワサの……!)
しかし、どうしてやればよいのか、さっぱり分からない。頭の中を、「サイドギャザーで多い日も安心」だとか「後ろ漏れしない超ロング」だとかいうCMが流れていく。が、どれも今はない。ある訳がない。あったところで、使い方も分からない。第一、この時代の女性は、パンツをはいていない!
(どうすりゃええんや)
パニクった頭は爆発寸前だ。
(誰か、女の人……そう、女の人……)
やっと一人思い当たった。オヨネ婆さんだ。
「待ってろ。今、婆さんを呼んで来たる」
しかし、薫は、逆にすがりついてきた。
「いやだ。一人にしないでくれ」
いつも強気の大きな瞳が潤んでいる。突き放すこともできず、翔は迷った。
(しゃあない)
思い切って、薫を抱き上げた。小柄な体は、思ったより軽かった。橘の香りが翔を包む。柔らかな体に、心臓が走りだす。それをごまかすため、自分も走りだした。
「弓が」
こんなときだというのに、薫はまだ、弓の心配なんかしている。翔はぶっきらぼうに、
「あとから拾いに来てやるよ」
とだけ言った。
婆さんは麦畑にいるはずだった。が、姿が見えない。
畦道を駆けながら、名前を呼ぶ。
「婆さーん。どこだー」
青く茂った麦の穂の上に、ひょいと、婆さんの顔が現れた。
「何慌てちょる」
翔は、口ごもった。
「薫が、その……、生理なんや」
「はあ? せいり? 瀬に入って転びはったか?」
「ちゃうねん。川には行ってへん」
必死で言葉を探す。
「そやから、その、あれや。ほら、女の人に毎月来るヤツ。婆さんかって、昔はあったんやろ?」
「はあはあ、月の障か?」
それがどうしたという顔で二人を見ていた婆さんの視線が薫に止まった。見る間に、その表情が変わっていく。
「か、薫はん。あんた、女やったんか!」
腰もぬかさんばかりに驚く婆さんに、薫は済まなさそうに下を向く。
「だから、頼む。教せたってくれ」
翔は、婆さんに薫を押し付けると、後も見ずに逃げ出した。
弓を拾って家に帰ると、丁度処置が終わった所のようだった。板戸越しに、二人の会話が聞こえてくる。
「ええか、これからは毎月、自分でするんやで」
「毎月?」
薫は、まだ不安そうだ。
「そう、毎月や。初めは少しずれるかも知れんが、そのうちお月さんと同じになる」
「こんな恐ろしいことが、毎月起こるのか」
引きつった声が響く。
とたんに、婆さんが吹き出す。
「それが、猪を射殺す人の言葉かいな。まあ初めてやし、しゃあないかもしれへんが。もう十七やろ。しっかりせんと、立派な赤子が産めへんで」
「赤子?」
今度は、消え入るような声。
「そうや。普通はもっと早くくるもんやけど。なあに、心配いらへん。早ても遅ても、ちゃんと子供は産めるよってに」
少し間があいて、再び薫の声がした。
「女は、誰でもこんな目に合うのか?」
婆さんがケタケタ笑う。
翔はそっと弓をおいた。傍らに、一輪の椿を添える。ほんの数秒、その花を眩しそうに見つめた後、身を翻し走りだした。
しばらく後、翔は家に戻ってきた。まだまだ火照ったままの頭を冷やしたくて、川に向かう。その足が止まる。
水汲み場で娘が一人洗濯をしている。肩までたくしあげた袖口から、白い、細い二の腕が見えている。時折、濡れた指先で、首筋にかかる後れ毛を無造作に掻き上げる。そのたびに、肩の下で束ねた黒髪が、しなやかに波打つ。
(匂さん……?)
麻でできた紺の着物はいかにも百姓娘だが、育ちの良さは隠せない。
言葉をかけることもできず、ただうっとりと見つめ続けた。
(これは、夢? 俺の心が呼んだ、幻?)
その娘が立ち上がった。振り返った顔を見て声を上げた。それは、悲鳴に近かった。
「薫!」
薫は一瞬身を竦め、それから、息を吐いた。
「翔か。驚かすものではないぞ。いつからそこにいたのだ」
その言葉が耳に入らないほど、翔は動揺していた。
目の前の女性は、言葉遣いこそいつもの薫だが、他はまるで知らない女性。女とは、衣装一つでこうも変わるものなのか。何より、後姿は匂そっくりではないか。
まじまじと薫を見つめる。その大きく開かれた瞳に、薫は朱くなり、意味もなく着物の裾を直した。
「婆さんが、フジノの小袖を貸してくれたのだ。袴は汚れたし、第一、不便なのだ」
ド鈍の翔には、何が不便なのか分からない。もっとも、生理がどれだけ不便で鬱陶しいものか、男には分からないだろう。
翔が何も言わずホケーと口を開けていると、薫は焦ったように早口でしゃべり始めた。
「似合わないのは分かっているのだ。裾がすぐ乱れるし。大股過ぎるのだ、歩き方が。それに、女髪はどうも邪魔になるし……」
「いや……」
驚きのあまり、本音が隠れてしまった。
「いや、十分女に見える」
薫の眼差しが、危険信号を発した。が、気づかない。
「ほら、馬子にも衣装って……」
最後まで言い終わらないうちに視界が真っ暗になり、その中を火花が走った。
堅く絞った袴を翔の顔面に叩きつけた薫は、肩を怒らせて しかし、裾さばきには十分気を配って、行ってしまった。
その夜、納屋に向かう二人に、婆さんが声をかけてきた。
「薫はんは、今日からこっち」
二人は、思わず顔を見合わせた。今まで二人は、納屋に積み上げられた藁にもぐり込んで寝ていたのだが。
「嫁入り前の若い娘を、男と一緒に寝かしとく訳にはいかんやろ。夫婦ならともかく。ほんまに。女やと知っとったら、最初からちゃんとしたのに。それとも、薫はん、まさか自分が女やて知らんかった訳やないやろ」
そのぼやきは、翔にとってもありがたかった。今まで本気で忘れていたことを、薫が女だということを、今夜は意識せずにはいられなかったから。
横になってみたものの、なかなか寝付けない。昼間のことが思い出されて、どうしても気持ちが高ぶってくる。
やっと、うとうとし始めた頃だった。
引き戸が開くような気配がして、はっと目を開けた。真っ暗でよく分からないが、微かに橘の香りがする。
「薫?」
声をかけたが、相手は答えもせず近寄って来る。思わず身構える。目を凝らして正体を探ると、やはり薫だった。
「どうしたんや。まだ腹が痛いんか」
薫は、何か話そうとしては、ためらうように口を閉じる。何度かそれを繰り返した後、とうとう思い切ったように言葉を発した。
「翔は、どうして子供が生まれるのか、知っているか」
あまりに意外な質問に、答えをためらう。
「そりゃ、まあ、知識だけは」
薫がぐいっと身を乗り出してくる。
「教えてくれ」
「ええ! 今?」
思わず大声を上げて、口を押さえる。
「ああ、頼む」
(そんなこと言われたって……)
心臓が汗をかき始める。
「だから、それは、精子と卵子が合体して……」
口の中でモギュモギュ言葉を練り回す。
「私は、生まれる話を聞いているのだ。生死に乱死などと、死ぬ話ではない」
薫は、苛つく声で詰め寄ってくる。
「私は怖いのだ。今まで、誰もこんなことを教えてはくれなかった。お願いだ。私のおなかの中には、もう、赤子は入っているのか」
ああ、そういうことかと、ほっとした。
「大丈夫。まだない、はずや」
しかし、薫はそれで許してはくれなかった。
「では、どうやって、赤子はおなかに入ってくるのだ」
核心に迫られ、うろたえた。
「それは、まあ、その、やることをやれば……」
「やること? どんなことだ?」
薫が体を寄せてくる。甘い香りが翔の気持ちををくすぐる。昼間見た、腕の白さが目の前にちらつく。体中の血液が、すごい速さで回り始めた。
「知りたい?」
抑えがたい好奇心に負けて、翔が聞く。
「知りたい」
薫が答える。熱い息が頬にかかる。
翔は唾を飲んで、乾いた唇をちょっとなめた。右手をそっと上げ、薫の肩に回す。
「なら、俺が……」
教えてあげると言いかけて、止めた。稲妻のように義直の声が脳裏を駆け巡った。
『左京、薫を頼む』
とたんに、我に返った。記憶の中の左京の鋭い視線が胸を貫く。スーッと気持ちがクールダウンする。
肩に回しかけた手をサッと引っ込めると、藁をかき分けて中に潜った。
「左京さんに聞けよ。彼なら教えてくれるやろ」
薫は藁に手を突っ込んで翔をつかむと、その体を揺さぶった。
「それができぬから、こうして聞いているのだ」
しかし、翔は顔を出そうとしなかった。聞こえぬ振りをして目を閉じた。瞼の裏で、左京の白刃がきらめく。薫に手を出したと知れたら、三枚に卸されるかもしれない。
(冗談やない。俺はまだ命が惜しい)
藁を掘り起こしてまで聞くつもりはなかったらしい。
薫の立ち去る気配に、やっと頭を出した。フウーッと大きく息を吐く。心臓はまだすごい勢いで波打っている。
(全く、何て一日や……)
下着にもぐり込んだ藁の切れ端が、チクチクチクと体と心を刺す。
深呼吸を繰り返してみたものの、目はますます冴えるだけだった。




