花菱の夢(32)弐の夢 椿①
弐の夢
椿①
猪はうまく売れた。もらった銀子を入れた巾着を、薫はしっかりと帯の間に挟み込んだ。その姿は、どこから見ても立派な浮浪児だった。顔が見えないよう、頭に手ぬぐいでほっかぶりしている。はみ出した髪の毛は薄汚れてぼさぼさだし、万一顔が見えても大丈夫なように、ところどころ泥を塗りつけてある。継ぎの当たった着物は、フジノの母の野良着を仕立て直したものだ。もちろん、翔も同様だ。
「あー。それにしても肩こった。肉が食いてぇ」
翔はほぐすように肩を回したあと、天秤棒を両手で持ち、うーんと伸びをした。
一〇〇キロはあろうかという猪を、薫と二人で担いできたのだ。朝餉の後、すぐ出発したにもかかわらず、着いた時には太陽が西の空に傾き始めていた。細い山道をよろよろと、休み休み下りてきたが、歩くに連れて荷物は肩に食い込み、投げ出してここで食っちまおうと、何度も提案した。もちろん、提案はその度に却下された。途中で荷車を借りることができなかったら、野垂れ死にしたんじゃないかと思うほどだった。
帰る前に、二人はぐるりと屋敷沿いの道を歩いた。
「随分大きいなあ」
屋敷内に入れてもらえるかと期待していたのに裏門の前で追い返され、翔はがっかりしていた。しかし、薫はふんっと、威張るように鼻を鳴らした。
「殿が、父上が、左京殿のために建てた館だ」
「ええっ」
薫は顔色一つ変えず、「お陰で、館内は手に取るように解るぞ」と喜んだ。
「もっとも、そのどこに匂殿がいるかまでは解らぬが……。なあに、それはこれから探れば良いことだ」
広野の町は、その名ほども広くない。町の真中を小さな川が流れている。小さいくせに、名を大川という。河口は小さな湾になっていて、古くから港として栄えていた。
湾を見下ろす小高い山の上には穂積氏配下の丸山氏の城があったらしいが、昨年の戦で焼失したという。戦は城を中心に行われ、その近辺を焼き尽くしたらしい。
幸い、屋敷は海からかなり離れていたため戦火に晒されることもなく、ほとんど無傷で残ったのだという。それに平井氏が手を入れ、住居に使っているとのこと。しかし、まだまだ完成には至らないらしく、裏門では作業をする男が忙しそうに出入りしていた。
屋敷の場所は町の東南、大川沿い。石垣を積み、更に、高い塀を廻らせてある。見上げた高さは、校舎の二階、ベランダの手すりぐらいか? 五メートルはありそうだ。四隅には矢倉があり、母屋の位置は、更に高くしてある。ちょっとした城だ。
門は二つ。南東と西にある。西は正門、立派な石段の上にある。海まで広がる街並を見下ろすように建っている。二人が追い返された裏門は、南東になる。
東側に回ると、石垣は緩やかな抛物線を描いているが、塀はほぼ垂直。手がかりになるような隙間もなく、フリークライミングにはちょっときつそうだ。おまけに、農業用の水路が石垣に沿って流れ、堀のように館を取り囲んでいる。
「鉤縄でも投げて登るか……」
そのつぶやきに、思わず反応する。
「鉤縄も訓練したんか」
薫は少し赤くなって、首を横を振った。
「やったことはないが……、何とかできると思う。鉤縄を見つけてくるのが先決だが……」
最後のほうの声の小ささに、思わず笑った。
「ほな、別の方法で」
その辺りは一面の麦畑で、その中を、館に向かって真っ直ぐ畦道が伸びている。これが利用できそうだった。
「ほう、どうやって?」
その問いに、軽くウインクして見せた。
「俺は忍者やぜ。それっくらい心得てるさ」
薫はふふっと口元を押さえた。
「ちょっと間抜けな忍者だがな」
薫が本気にしていないのは分かっていたが、翔は別に気にもしなかった。
二人はとりあえず下見を済ますと、帰路についた。
帰り道、空の荷車を牽きながら、翔が聞いた。
「あの館が左京さんのものになるはずやったってことは、ゆくゆくは丸山氏の代わりにこの町を守るはずやったってことやろ。すごいな」
後から、荷車を押す薫の声が聞こえてくる。
「丸山氏には、ご子息がおられなかったからな」
「そやけど、何で左京さんは、松陰城でお兄さんと一緒に戦わんかったんや」
高岡家は、代々、「南の守り」といわれる松陰城の城主になるという。そして、戦の折には、左京の兄が城主だった。しかし、左京はそこへは行かなかった。
「忘れたのか。殿が三河へ行けとおっしゃったからだ」
「でも、行ってないやん」
「道がすべて封じられていたからだ。秀吉も馬鹿じゃないからな。それくらい読んでおろう。まあ、私が行きたがらなかったからでもあるが」
優しい薫は、匂や菊千代、そして翔をおいて一人だけ逃げることができなかったのだろう。左京も同じと見えて、二人で使われていない炭焼き小屋に隠れ、何とか追っ手の目をごまかしたと言う。そのうちに戦が終わったものの、二人はずっと指名手配のように探されていたらしい。
「その理由も、フジノ殿の話から分ったがな」
「うん。薫は、もう平井家には近寄らん方がええかもな」
「ああ。探りは忍者の翔殿に任せるよ」
翔は力なく笑った。笑うだけの体力が、もう、無かった。
二人は黙り込むと、道を急いだ。夕暮れも近い。婆さんちに戻る頃には、夜も更けていることだろう。
その二日後、二人は山に入った。翔があんまり肉を食べたいというものだから、薫が山鳥でも取りに行こうと誘ってくれたのだ。
「ついでに弓も教えてやろう」
薫はそう笑ったが、どことなく表情が曇っている。
「どうしたんや、妙な顔して」
「なに、腹が少し痛むだけだ。心配ない」
「行くの、やめるか」
翔の言葉に、薫は首を横に振った。
「この程度でへこたれる私だと思うのか」
笑っていても、どうもいつもの元気がない。それでも二人は出発した。言い出したらきかない薫の性格はよく知っていた。
山に入って、しばらく歩いたときだった。
「あ、椿」
薫が指さした。
見上げると、薮椿の真っ赤な花が、二人の頭上に垂れている。声に驚いたのか、枝を揺らしてメジロが飛んだ。
薫は、懐かしそうに目を細めた。
「殿……、父上の好きな花だ」
椿の花は、首が落ちるといって、武士に嫌われていたと聞いている。その花をあえて好んだというところに、義直の豪胆さを見るようで心地よかった。
「よし、取ってやる」
翔は、右手の薮を掻き分けた。滑らかな幹によじ登る。細い枝が折れそうで不安だったが、薫を元気づけてやりたかった。手を伸ばして一枝手折ると、声をかけた。
「おい、落とすぞ。ちゃんと受け取れよ」
が、返事がない。
下を見て、はっとした。薫が弓を落としてうずくまっている。
「か……け、る」
掠れた声が助けを求めるように響く。
瞬間、翔は木から飛び降りた。弾みで枝が大きく揺れる。
薫は苦しそうに、おなかの辺りを押さえている。その足元には、真っ赤な椿の花が散っていた。いや、よく見ると、それは血溜まりだった。




