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花菱の夢  作者: 不動坊多喜


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30/50

花菱の夢(30)弐の夢 藤⑤

   弐の夢



   藤⑤


(猪!)

 豚によく似たその鼻面は、確かに猪だった。そいつが鼻で畑を掘り返している。

 猪は雑食で、何でも食べる。おそらく、野菜の味を覚え、それから来るようになったのだろう。

 そっと薫を振り返る。薫も青い顔をしていたが、それでも、弓を持つ手は震えていない。その手に力が加わった。弓が満月のようにしなり、弦が鋭角になる。次の瞬間、元の形に戻った。

 猪がうめくように哭き声を上げた。矢は、左の腹に突き刺さっていた。

 薫は、もう二本目の矢をつがえていた。その姿をにらみつけるように猪は向きを変えると、猛然と向かってきた。

 手負いの猪は怖い。

人から聞いた様々な猪事件が、頭の中で回り始めた。

 無人島で磯釣りをしていた人が、ハンターに追われて海を渡って来た手負いの猪に襲われ、出血多量に陥ったこと。友達のお父さんの車に猪がぶつかって、車体はへしゃげてしまったが、猪は逃げていったということ。その手の話は、枚挙にいとまがない。

 回り始めた話の渦に、脳細胞が船酔い状態になった。逃げ出そうとは思ったが、神経系が体に命令を伝えてくれない。

「右へ」

 薫の声でやっと我に返り、指示に従う。その視界を、二本目の矢が横切った。

 同時に、薫は左へ駆け出す。矢は正確に相手の左の目を貫いた。しかし、猪は足を止めない。狂ったように走る。薫が走りながら三本目を放つ。みごとに右目を射ぬく。視力を奪われた猪は、段々畑で足を踏み外し、転がり落ちて動きを止めた。

(やった)

 二人はほっと顔を見合すと、段を飛び下りた。と、猪の足が、ずずっと地面を蹴った。二人は再び体を固くした。

 猪は、ゆっくりと体の向きを変えた。両眼に突き刺さった矢が、角のように怒りを発している。悲鳴のような雄叫びを上げ、むちゃくちゃに走り始めた。正に、猪突猛進。

 しかし、薫はたじろぎもせず矢を射続けた。

 猪の速度が目に見えて落ちていく。そして、ついに足が上がらなくなった。しばらくそのまま立っていたが、ズシンと重い響きを立てて横倒しになった。その腹には、新たに五本の矢が刺さっていた。

 薫は、と見ると、まだ、しっかと両目を見開いて、猪に狙いをつけていた。

「す、すごいやん、薫……」

 興奮の治まらない声に、ようやく薫は弓を下ろした。だらりと、両の手が下がる。

「お前、やっぱ女なんかやめて、マタギになった方がええんとちゃうか」

 薫が静かに振り返る。その頬には、血の気がなかった。

「馬鹿を言うな。これでも、私は……」

 パタッと弓の落ちる音がした。一本の樹が倒れるように、薫が月光の中で弧を描く。翔は、慌ててその体を受け止めた。


「これ、本当に、薫さんが仕留めたんですか」

 フジノが驚きの声を上げた。オヨネ婆さんは、びっくりし過ぎて声も上げられない。

「そうなんや。すごいやろう」

 翔は興奮した口調で説明した。フジノはしきりにうなずいている。薫は恥ずかしそうに顔を赤らめ、黙って見ているだけだ。

 話が終わって、みんながため息をついて落ち着いたとき、やっと、婆さんが口を開いた。

「ほんで、翔はんは、その間何しとったんや」

「……」

 言葉が出ない。薫がくっくと笑いを漏らした。

「それより」

 フジノが気を利かせて話を変えた。

「これ、どうします」

「そのことだが」

 薫が、急に真面目な顔付きになった。

「フジノ殿の仕えているお屋敷で買い上げてはもらえぬだろうか。そうすれば、世話になったお礼もできるし、我らも路銀が手に入って有り難いのだが」

 フジノもうなずいた。

「そうですね。私も、今日の午後には戻らねばなりませんし、一緒に行きますか」

「有り難い」

 薫は頭を下げた。


「うまくやったな」

 二人きりになると、翔は薫の肩を叩いた。

「ああ。これで怪しまれずに平井家に近づける」

「ほな、今夜忍び込むか」

 翔は、眼を輝かせて体を乗り出す。何やかや言っても、面白いことは大好きだ。

「いや。もっと下見をしないと」

 打って変わって薫は慎重だった。この間とはまるで逆だ。

「確かに」

 ということは、まだまだこの家の世話になるということだ。

「だからこそ、金だ」

 薫の表情が厳しくなる。翔もうなずいたが、薫が思ったより現実的なので内心驚いた。

「戦には金と米が必要だ」

 それは、義直から倣ったことだった。

 一方、翔の現実は、もっと即物的だ。

「にしても、もったいない。せめて一口食べてから……」

 この時代に来てから、肉類は口にしていない。猪肉は『ボタン』と言って、なかなかの美味である。

 物欲しそうに指をくわえる翔を、薫が横目で笑った。

「翔は、これを捌けるか」

「まさか」

 ぶんと首を横に振る。

「私もだ」

 料理ができなければ、始まらない。

「だがな、左京殿はお上手だった」

「左京さんが?」

「捕らえた獲物を捌けねば困るだろう。殿も……、父上も、それは見事な包丁さばきだった」

 戦場においては、どんな状況に陥るかも分からない。料理ができなければ、生きてもいけない。

「それなのに、二人とも、私にはそういうことをさせてはくれなかった。お陰で、私は包丁をもったこともなかった」

 二人にとって、薫は何より大切な娘。彼女の手を血で汚したくはなかったのだろう。もしかしたら、一生、自分で包丁をもったりする必要のない暮らしを与えてやれると思っていたのかもしれない。

「匂殿は、台所仕事も針仕事もできるというのに……」

 薫が、あまりにもしんみりと、寂しそうに言うものだから、翔はたまらなくなった。

「薫は薫やないか。そんなふうに比べるんはやめとけよ」

 薫は、しばらく口を閉ざしていた。が、突然、堰を切ったように話し出した。

「いいか、私はこの十月、何もしないで、ただ左京殿に食わせてもらっていたのだ。追っ手があると言って、外へも出してもらえない。親鳥の帰りを待つ雛よろしく、小屋で待つだけだ。何か手伝おうとすると、怒る。私を大切な預かり物だと言う。私はずっとあの方の小姓のつもりでいたのに、本当は私の方が世話されていただけだったなんて、お笑いではないか。せめて料理でもと、待つ間に一人やってみたこともあった。そしたら……、魚は炭になった。味噌汁は味噌煮だった。煮物は中まで火が通っていないうえ、最低の味だった。おまけに包丁で指は切る……。私は、私は……」

 薫の顔は、自分に対する羞恥と怒りで真っ赤だった。

「ただの役立たずだ」

 震える声で、吐き捨てるようにそう言うと、そっぽを向いた。

「それなのに、左京殿はそれで良いという。私には、何の期待もしていないからだ。本当は、本当は、匂殿が好きなくせに……」

 翔は、はっとした。薫が泣いている。

「薫……。やっぱ、左京さんが好きなんか」

 薫は肩を震わせながら唇を噛んだ。必死でこらえているその頬を、真珠のような涙が滴り落ちる。嗚咽に交じって、喘ぐようにかすれた声が聞こえる。

「悪いのか……、私が、恋を……したら……。おかしいか……」

「おかしかないよ。せやけど、左京さんは、薫のこと大切に思ってるからそうするんやろ。そいじゃあかんのか」

 慰めたくて言った言葉に、薫は一層泣きじゃくった。

「殿の……、父上の命だからだ。殿に、私を守るよう、言われたから……。だから……、好きでもない女と、一緒になるのだ……。もう、もう……、殿はいないというのに。こんな屈辱、私には耐えられない」

 突然、薫のすべてが見えてきた。

  左京殿と一緒にいたい  

口に出せない薫の願い。そう、薫はずっと左京が好きだった。けれど左京は匂が好きで、だから彼の元から去った。そして、匂を助けたいと言う。左京のために……。

「私の夢は、きっと一生かなわない」いつか薫がそう言った。「男に生まれたかった」と。「戦場で共に倒れるほうが良い」と。あれも、これも、みんな左京のことだったのだ。人に告げることもできず、殿の命を拒否することもできず、ずっと一人で苦しんできたのだ。

「左京さんの気持ち、確かめたことあるんか」

 薫は、首を横に振った。

「そんな恐ろしいこと、私にはできぬ」

「なら、分からんやないか」

「分からぬものか。私はずっと、あの二人を見てきたのだぞ。匂殿だって……、匂殿が姿を消したのだって、私に遠慮したからに違いない。本当は左京殿がお好きなのに……」

 薫の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。

「頼むから、もう泣くなよ。匂さんを助けるために、平井家を探りに行くんやろ?」

 その言葉に、やっと涙を拭った。

「そうだな。今は泣いている場合ではない」

 無理に笑おうとする薫のいじらしさが、言いようのないほど大切なものに思えた。

「薫は役立たずやないよ。少なくとも俺にとっては」

 薫はふっと、寂しそうに口元を上げた。

「翔は優しいな」

 くるりと背を向けると、

「だが、そんな優しさは、罪だぞ」

そう言い捨てて歩きだした。その背中の意味は、翔には解らなかった。




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