花菱の夢(3) 壱の夢 橘②
壱の夢
橘②
キーンという金属音がして、光るものが草の中に落ちた。
男は「何だ?」という表情で一歩退いた。すかさず少年が斬りかかる。男は余裕でかわしたが、そこにわずかな隙ができた。
瞬間、翔は手の中に残っていた木片を、男の顔を狙って投げ付けた。コントロールには自信があった。が、それは思ってもみなかった結果をもたらした。
「グギャー」
悲鳴を上げ、男は刀を落とした。顔面を押さえてうずくまる。杭が右目に刺さっていた。指の間から真っ赤な血が溢れだす。見る見るうちに、足元に紅の水たまりが広がっていく。
翔は、一瞬動きを止めた。それから、込み上げる吐き気を堪えようと。口元を抑えた。目の前の景色が歪み、渦を巻く。思わずしゃがみそうになるのを、必死で踏ん張る。
(逃げたら、あかん……)
虚ろな目の端に、男に容赦なく斬りかかる少年が映っている。男は転がるようにそれをかわすと、刀をつかんで立ち上がった。
「覚えてろ」
いつの時代にも共通な捨てぜりふを残して、男が逃げた。
追いかけるように、髭面が起き上がった。近くにいた黒馬の手綱に手をかけ、飛び乗ろうとした。瞬間、馬が首を振り回し、髭面は吹っ飛んだ。しかし、空中で見事に回転し受身を取って着地、立ち上がりざま逃げていった。
少年が、後を追いかけようとした。
「やめろ、薫」
左京が、強い調子で彼を止めた。
少年は悔しそうな表情でチッと舌を鳴らすと、刀を鞘に収めた。
「お主、なかなかやるじゃないか」
薫と呼ばれた少年が、額の汗を拭いながら翔に声をかけた。翔はまだ自失していたが、強ばった頬を少しだけ緩めた。
「それにしても、義直殿のお膝元に、あのような者がうろついておるとは」
薫は、もう誰も潜んでいないか確かめるように、茂みを覗き込んだ。
翔もぐるっと首を回して驚いた。六人の男が血まみれになって倒れている。左京が一人で片付けたのは明らかだった。が、彼は、返り血一つ浴びていない。
「薫、血が」
左京が驚いた声で薫の右手を取った。手の甲に一筋、刀傷があった。
「ああ、あの男はなかなかの遣い手でしたので。少し油断しておりました。掠り傷ですので心配には及びません」
薫はペロッと舌を出して傷口を嘗めようとした。赤い唇から覗いた舌は、妙に色っぽかった。しかし、左京はそうはさせなかった。素早くその手を取ると、自分の唇を押し当てた。二、三度、吸った血を吐き出し、心配そうに傷口をのぞき込んでいる。
「毒など塗ってはなかろうが……」
整った顔立ちが、わずかに翳る。それから自分が着ていた蘇芳紫の小袖を引き裂くと、傷口を縛った。
主人にそこまでさせたことを恥ずかしく思っているのだろう。薫は、真っ赤になって下を向いている。
丁寧に処置する左京の顔付きからは、彼がいかに薫を大切に思っているかが伺えた。優しげな眼差しや長身細みの優雅な物腰からは、先程の殺意が想像できなかった。
薫は、翔が左京を驚きの眼で見つめているのを見て取ると、
「驚いているようだが、こちらが穂積義直の懐刀と言われる高岡左京殿だ。女人の間では、紀州の光源氏と噂されているらしいが、名前ぐらい聞いておろう」
と、得意そうに笑った。
しかし、翔が首を横に振ったものだから、不満そうに唇を曲げた。
「なに? 知らぬのか。さては、田舎者だな」
その言葉に、左京は困った顔をした。
「私の名などせいぜいこの土地だけのもの。よそから来たものは知らぬも当然。それより、館に戻ろう。逃げた奴らが仲間を連れて来ぬとも限らぬ」
それから、ちょっと考えるような表情をした後、
「どうだ、そちも一緒に来ぬか」
と、翔に呼びかけた。
「左京殿、それは……」
「助けてもらった礼もせねばならぬ」
左京はきっぱりとそう言うと、
「行くぞ」
と背を向けた。その先には二頭の馬が草を食んでいた。
左京は、先ほどの黒馬に跨った。髭面を振り飛ばした時にはずいぶんな荒馬と思ったが、彼にはよろこんで背を貸している。
薫も白いほうに飛び乗ると手綱を握った。浅葱色の小袖がその姿を凛々しく引き立たせている。
「行くぞ」
左京が、翔を振り返る。
翔は黙ってうなずいたが、思い出したように、
「ちょい待って」
と言うと、草の中に身をかがめた。
あちこち探って、ようやく体を起こしたときには、時計を握っていた。
それは、翔の祖父、衛にもらったものだった。
小さいころその金のベルトがとても豪華に見えて、何度もおねだりをしたものだ。しかし、初めての給料で買ったというその時計を、祖父は決して手放さなかった。
四年前、祖父は突然倒れた。三日間の昏睡状態からふいに眼を開け、翔の名を呼んだという。駆け付けたその手に時計を握らせ、絞り出すように言った。
「日本一の剣士になれよ」
それが最後の言葉だった。
そのときはもう、アナログのゼンマイ式時計なんか、欲しくはなくなっていたのだが……。
山へ行くときはいつも、落としても惜しくないこの時計をつけることにしていた。
時計はベルトがちぎれていた。もし、これがなかったら、ちぎれていたのは翔の手首だったろう。握る指に力が入る。
「早くしろ、おいて行くぞ」
薫の声に我に返ると、その背を追いかけた。
三人が去るのを待っていたように、烏が舞い降りて死肉をついばみ始めた。




