花菱の夢(28)弐の夢 藤③
弐の夢
藤③
二人は思わず固まった。口の中のご飯が喉につかえる。黙っていると怪しまれそうで、かといって返事も見つからない。その不安を見透かすように、フジノは微笑んだ。
「大丈夫。誰にも言ったりしませんよ。ねえ、お婆ちゃん」
そう言って、傍らに座る婆さんを振り返った。
婆さんもうなずくと、
「ほんに、穂積の殿様は、ええお人じゃった」
と箸を置き、祈るように両手を合わせた。
そのあと、フジノは、穂積家に関するいろんな噂を語ってくれた。
たとえば、高穂城が落ちた後、助かった家臣たちは松陰城に集結し、左京の兄、頭馬を中心に九カ月も戦ったこと。しかし、肝心の左京は行方をくらまし、その戦には参加しなかったこと。結局、頭馬が打ち首となることで秀吉と和睦したこと。あるいは、いまだに農民の間で穂積家の評判は高く、平井家は慣れない土地で苦労しているということ。年貢の石高にしても、各地の名主たちが不満を言い立てて思うように決められないこと。など、など。
「平井様は不安なんですよ。もし、左京様が兵を挙げたら、勝てないんじゃないかって。というのも、左京様は頭馬様より人望が厚く、将としての器も上だったとか。城の焼け跡からは、殿様の遺骨しか見つかっていないし……。それは、昇竜寺に納められたのですけど。きっと左京様は、菊千代君と一緒にどこかに隠れていて、館と姫を取り戻す機会をうかがっているんだって。それに、もう一つ、変な噂もありますしね」
「変な噂?」
フジノは真顔でうなずくと、声をひそめた。
「匂姫は穂積の殿様の娘ではないって。本物は別にいるって」
翔は、心臓が止まるかと思うほど驚いた。薫の様子が気になったが、怖くて目も向けられなかった。辛うじて平静を保つと、唾を飲み、言葉を発した。
「それ、ホンマの話かい」
「さあ? ただ、帯刀様はその話にとても興味を持たれて、何としても見つけ出せって命令してるそうですよ。だって、ほら、その方が見つかれば、こちらが本物ですって太閤様に差し出せば良いんですものね。でっち上げてでも、そうしたいんじゃないですか」
食事も済みおなかは落ち着いたものの、気持ちが落ち着かない。
薫を探して外へ出ると、裏のほうから馬の鳴き声が聞こえた。と、薫が白竜に跨がってどこかへ行こうとしている。
「おい、待てよ。どこへ行くんや」
翔は、慌てて道をふさいだ。
「そこをどけ。私は行かねば」
ただならぬ様子に、自然と体が強ばる。
「まさか、平井家へ行くつもりか」
「そうだと悪いか」
「当たり前やろ」
叫ぶなり、薫の腰にしがみついた。
「放せ」
薫は、振りほどこうと手綱を引いた。馬がいななき、後足で立ち上がった。しかし、翔は放さない。白竜は暴れ、二人はもんどりうって馬から転げ落ちた。
「なぜ、止める」
薫は、泣きながら地面を拳で叩きつけた。
「行ってどうするんや。私が本物ですって、秀吉んとこへ行くんか」
肩で息をしながら、薫を見据えた。
「助けるに決まってるだろ」
「アホ。よう考えェ。何の準備もなしに飛び込んで、うまいこといくと思うか」
「ならば、どうすればよいのだ」
薫は、両手で顔を覆った。その指の透き間から、涙が溢れ出して流れ落ちる。
翔は、ふうっと息をはいた。なだめるように、優しく、薫の肩に手をかけた。
「俺にもよう分からん。けど、焦ったってダメや。今の話やったら、秀吉んとこへ送られるにしてもまだ先や。それまでに、きちんと偵察して、作戦立てて、忍び込むんはそれからや」
薫は顔を隠したまま、しゃくり上げている。
「な。早まったことをせんと、何とか考えようや」
薫がやっとうなずいたので、翔も肩の力を抜いた。
そんな二人の間を、突風が駆け抜けた。春一番だったのかもしれない。舞い上がる土ぼこりに思わず目を覆う。細く開けた右目の片隅を、何か白いものがちらついた。
「雪……?」
見上げると、それは、最後の花を散らす梅の木だった。
「匂殿……」
薫が花に呼びかけた。白い花びらが微笑むように揺れて、散った。
翔は、風に舞う花びらを目で追った。
「彼女、いつも梅の花の香りがしてたもんなあ。何かつけてたんかな」
「いや、生まれたときからそうだったらしい。それで、殿が『匂』と名付けられたとか。『匂う草』は梅の別名だからな」
「匂う草か」
口の中で、繰り返してみる。何と、彼女にふさわしい名前だろう。音にするだけで、品のよい仕草や魅惑的な笑みが思い出される。
黙って花を見つめていると、不意に薫が言った。
「何だ。翔も匂殿に気があったのか」
「ええっ。ちゃうよ」
慌てて否定したが、薫は寂しそうに笑った。
「照れずともよかろう。どうせ、男はみんな美女が好きなのだ。もっとも、匂殿と左京殿が許婚だということを忘れないほうがよいであろう」
そのセリフの翳りを、翔は聞き逃さなかった。
もしかすると、薫は匂にコンプレックスを抱いている?
小さい頃から男の形をし、女らしさのかけらもない。男に生まれたかったと口では言っても、本当は匂のようになりたかったのかもしれない。「翔も」という言葉の裏は、「左京も」ということに違いない。ということは、薫は左京のことを………。
そう気づくと、何とか彼女を慰めたくなった。
「そやけど、薫かて橘の花の香りがするやんか。爽やかで、薫にぴったりやん」
けれど、その言葉に、薫は自嘲ぎみに笑っただけだった。
「橘か……。しょせん私は花散る里という訳だ」
『花散る里』 夏の御方 は、橘の花の中で光源氏と恋に落ちた。美人ではなかったが心優しく、源氏の息子、夕霧の養育を任されるほど彼に信頼され、愛された。しかし、源氏が最も愛したのは、 春の御方 『紫の上』。
そして、橘は初夏の花で、梅は春の花。左京が光源氏なら、紫の上は……。
ため息交じりの言葉の意味するところを、翔は知りもしなかった。が、薫が何かを悲しんでいることだけは分かった。
「そんなことないって。薫は散る花やない。そりゃ、梅のように派手やないけど、香りは負けへんよ。だからさ、笑えよ。薫の笑顔見てると、ほっとするんや。俺は好きやで」
薫は、ほんの少しその頬をほころばせたが、寂しそうに空を見上げた。翔の胸が、ギリギリ音が出るほど苦しくなった。
(なんとしても、匂さんを助けにゃ)
それで、薫がすっきりするなら、心から笑えるようになるのなら……。
翔は拳を握り締め、唇を一文字に結んだ。応えるように、ウグイスが一声、不器用に鳴いた。




