花菱の夢(27)弐の夢 藤②
弐の夢
藤②
二人を乗せた馬は、鷹尾山脈の東寄りを越そうとしていた。
当時の主要道路は熊野街道で、それを北上しようとすれば波迅川の渡しを越えなければならない。渡しは、屋敷跡よりもう少し川下にある。道は、現在の波迅市の北部で街道に合流。その後、山脈にさしかかる。この道は石畳が敷かれ整備されているが、関所がある。二人は、渡しも関所も避けねばならない。
そこで、もっと上流で川を渡る道を選んだのだ。
山道を登り始めたとき、急に雲が出てきた。
「嫌な雲だな」
薫が眉をしかめる。
「雪になるかも知れぬ」
嫌な予感ほどよく当たる。
山の中腹まで来たころ、雲は空を覆い尽くし、雪が降り始めた。まだ日のある時刻だったが、空は薄暗く、雪で視界は閉ざされた。
和歌山に雪は降らないと思っている人がいるようだが、それは間違いである。山間部に行けばちゃんと雪は積もるし、高野山に行けばスキー場だってある。ただし、海岸線や南紀地方では、ほとんど雪は見られない。
河波町でも、毎年、ちらつく程度の雪は降る。二、三年に一度は積もることもある。そんなときは、友達と土の交じった雪玉を投げ合ったり、屋根の雪を懸命に降ろしてダルマを作ったりした。ダルマの命は短く、日陰に置いても夜までもてば良い方だった。
その経験からすると、これは大雪の部類だった。辺りは、見る間に白一色に染められていく。体に降り積む雪を払いながら、先を急ぐ。馬がなかったらとても越えられなかっただろう。その馬も、雪に足を取られ、いつもより一人分重い荷物に疲れていた。
翔は、馬上で震えていた。ジャージの下はTシャツ一枚だ。ぴったりと体を寄せた薫の体温と体の震えが、彼女の背中を通して伝わってくる。
(ちょっと、ええ場面ちゃうん)
ちらっと頭をよぎったスケベな考えも、あっという間に吹き飛ばされてしまう。それほど、寒かった。
(それに、変や。何か、目がかすむ……)
かじかむ手で目をこする。薄暗い灰色の風景が、どんどん色を失っていく。太陽が沈んだのだろう。気温もますます下がっていく。
薫はひたすら馬を進める。やっと、下りになる。何とか山は越えた。しかし、道は一面の雪の下に隠され、ないのも同じ。どこをどう進んでいるのかも分からない。
それでも、薫は馬を進める。とにかく、下へ、ふもとを目指して。
「眠るな」
その声に、翔ははっと体を起こした。自分でも眠っていることに気がつかなかった。
「眠ると落馬するぞ」
翔はうなずく。しかし、また、意識が遠のいていく。ふっと気づき、また眠り……。馬の刻むリズムが、一層眠りを誘う。
(雪山で眠ると死ぬぞ)
心の中で、そんな声がする。それでも、目を開けることは、もはや不可能に思われた。
(なんでやろう。体に力が入らん……。このまま死ぬんやろか……。ああ、そうや。そういえば、俺、何も食……)
風の音も雪の寒さも、遠く感じられた。体がふわぁっと浮いていく。今度は、ずんずんと重くなって下に降りてくる。そうして、どこまでも沈み込んでいく……。
トトトン、トトトトトン……。
ああ、お母ちゃんが何か切ってる。
ええ匂いやなあ。みそ汁の匂いや。
もう起きんと遅刻かなあ。
そやけど、もうちょっと寝てたいなあ。
お母ちゃんが起こしにくるまで、
もうちょっと……。
包丁の音が止み、誰かが翔のそばに来た。温かい手が、額に触れる。
「お母ちゃん。俺、おなかすいた」
うっすらと目を開けると、目の前の女性を見つめた。
(何や、お母ちゃん、えらい若なったぞ?)
その疑問は、次の返事で解決された。
「自分と同じ年頃の少女を母親呼ばわりするとは、失礼だぞ」
「薫……」
翔は、声のほうに首を向けた。反対側に、薫が座っていた。おそらく、翔が目覚めるまで、ずっとそうしていたのだろう。その姿を見ているうちに、記憶が戻ってきた。
(だいたい、あの程度の雪で死んだら、雪国の人に申し訳無いよな)
体を起こそうとして、軽いめまいを感じた。
「ああ、無理しないで」
さっきの少女が、優しく支えてくれた。
「食事の用意ならできてますよ」
笑いを含んだその声は、懐かしい響きをもっていて、心の中に染み入ってくる。
「全く、腹が減った位で目を回しおって」
薫は呆れたようにつぶやいた。
「しゃあないやろ。ずっと食べてなかったんやから」
「ずっとって、どれくらいだ」
「さあ?」
思い起こせば、牢に放り込まれた日の朝食べたのが最後だ。しかし、それは二日前なのかそれとも十一カ月前なのか、それが分からない。薫がため息をついた。
「とにかく、一度に食べ過ぎないことだな。胃袋がびっくりして引っ繰り返るぞ。それから、しっかりよく噛めよ」
そんな二人の会話を、少女は目を細めて聞いていた。
少女の名は、フジノと言った。明朗快活な丸い瞳に丸い顔は、いかにも人が善さそうで、笑顔が何とも可愛らしい。仕草も物言いも、傍にいる者の気持ちを和ませる、不思議な魅力があった。年は数えで十七歳。薫と同じだ。
(ということは、満年齢は十五? 二人とも俺と同級生やな)
とはいえ、薫は自分より大人びているし、フジノは更に大人だった。それもそのはず、彼女は家を離れ、お屋敷で女中働きをしているということだった。
その日、たまたま休みをもらい、帰ってくる途中、雪の中で立ち往生していた薫を見つけたのだという。
「吹雪に交じって、馬の鳴く声が聞こえたような気がして。おかしいなと思ったんです」 ここから奥に、人の住む家はない。この家も、普段はオヨネという婆さん一人。日が暮れて、しかもあんな吹雪の中を出歩くなど、とても考えられない。
「ご両親はどうなされたのだ」
控えめに、薫が尋ねた。
「二人とも亡くなりました」
「それは、すまなかった」
薫は下を向く。自分の身を振り返っているのかも知れない。
しかし、フジノは、屈託のない笑顔で話し始めた。
彼女の家も、南北朝の終わり頃までは武士だったという。父親はそれを誇りにしていて、自分も一旗上げられると信じて戦に出掛けたらしい。
「で、それっきり。生まれたばかりの私を抱えて、母は随分苦労したそうですよ」
母親は、無理がたたって一昨年病死。フジノは、知り合いの口利きで今の屋敷に勤めることになった、というわけだ。
「父の誇りだった刀は売ってしまいました。食べていくためには仕方ないですよね。でも、弓だけは残してるんです」
部屋の隅に小さな位牌が安置されている。その隣には矢の入った矢筒が立ててあり、後ろの壁には弓がかけられていた。
こんな話を、フジノはさらりと語る。誰を恨むということもない。その明るさはどこからくるのか。
「それより、あなた、薫さんとおっしゃったっけ?」
「そうだが、何か……?」
「私の奉公先に、よく似た方がおられるんですよ。もっとも、こちらは女の方ですけど……。ほら、去年の戦で亡くなられた穂積の殿様。その姫君ですよ」
翔と薫は、思わず顔を見合わせた。
フジノはそんな二人にはかまわず、得意げに話し始めた。
「そりゃもう、すごい美しい方で、一度見たら忘れられないくらい。私がお世話になっている平井家のご子息が 帯刀様とおっしゃるんですけど、この方がもう、夢中だとか。正室としてお迎えしたくて仕方ないみたいなんですけどね。でもねえ……」
フジノは急に声を潜めた。
「何か問題でもお在りなのか」
薫が、平静を装って尋ねた。
「問題というか」
フジノは話を止めると、ワイドショーの司会者のように好奇心に満ちた目で一座を見回した。
「姫君には、いいなずけがいるんです」
翔は、ふっと聞き返した。
「良い菜漬け? どんな漬物が必要なんや?」
一瞬空気が凍り、次の瞬間フジノは吹き出した。薫はかろうじてそれをこらえ、下を向いた。肩が小刻みに震えている。
「やだあ、翔さんったら。許婚は漬物じゃなくて、結婚の約束を交わされたお方のことですよ」
今度は、翔が吹き出す番だった。口の端にだらしなく垂れ下がってしまった菜っ葉の煮物を、大急ぎで手のひらでぬぐうと、口にもどした。フジノは笑いの収まらぬ顔で話を続けた。
「そのお相手というのが、左京様とおっしゃるんですけど、殿様の懐刀と言われたほどの切れ者でね、光源氏みたいに美しくて賢いお方なんですって。その方と比べたら、言っちゃあ悪いけど、帯刀様はちょっと、いえ、かなり見劣りするらしいんです。そりゃあ、姫様は断れる立場にはありませんけどね。なんだか可哀想で……」
薫は黙り込んでしまった。が、フジノの話はそれで終わりではなかった。
「それだけじゃないんです。姫君の噂を聞きつけた太閤様がね、姫君を召し出すようにとうるさいんですって」
「秀吉が!」
間髪入れずに薫が反応した。その声に、翔もフジノも、オヨネばあさんまで驚いて箸を止めた。
薫の表情は怒りのため赤く染まり、その声も震えていた。
フジノは探るような目付きで、二人を交互に見た。
「やっぱり、お二人は穂積家縁の方なんですね」




