花菱の夢(26)弐の夢 藤①
弐の夢
藤①
「おい、大丈夫か」
体を揺すられ、翔は目を開けた。知った顔が目に映る。
「ああ……、瑞穂……」
心の中で声がする。
(前にもあったぞ、このシチュエーション)
応えるように大きな声がして、横っ腹を蹴飛ばされた。
「何を寝ぼけておる。起きろ」
痛みが、翔を夢から引き戻した。慌てて跳び起きる。頭はボーッとしていたが、相手が誰かは確認できた。
「薫……」
「そうだ、私だ」
(つうことは、俺はまだ戦国時代にいるってわけ?)
恐る恐る周囲を見回す。見覚えのあるこの場所は、薫と初めて出会った崖下の小道。
「それにしても、よほどここで寝るのが好きなのだな。それとも、またあそこから落ちたとでもいうのか」
薫は崖の上をちろっと見やった。
そう言われても、返す言葉が見つからない。
(そうだよなぁ。そんなうまい話があるはずないよな……。我ながら、アホやなあ)
翔はあの時、あの場所にはタイムトンネルがある、そう思ったのだ。目にも見えず、普段は閉じている。けれど、雷の日に開く、そんなトンネルが。それが、神隠しの伝説を生んだと……。
(今度目覚めるときは、きっと未来やと信じてたのになあ)
ため息をつき、自嘲気味に笑う。目に映る景色は虚ろで色がない。
そんな翔に戸惑ったのか、薫がためらいがちに声をかけてきた。
「それで、菊千代君はどうされたのだ。一緒ではなかったのか」
「いや、一緒のはず……」
慌てて辺りを見回すが、彼の姿は見えない。
「私が来たときは、お前一人だったぞ」
「ほな、どっかへ行ったんかなあ……?」
自信無さげな答えに、薫は、
「それなら、待ってみるか」
と、草の上に腰を下ろした。
翔も並んで座った。肌寒い風に震えながら、ひざ頭を抱え込む。
静かだった。
日だまりの中にこうしていると、あの戦闘が夢の中の出来事のように思われた。
杭につながれた白い馬が、前の畑で草を食んでいる。
「あれは、白竜かい」
「ああ」
「ふうん、よう会えたなあ」
「翔とはぐれてすぐだった。白竜に会ったのは。まるで私たちの来るのを知っていたように、天竜と並んで走って来たのだ」
天竜というのは、左京の馬だ。大変気の荒い黒馬で、彼以外の人は乗りこなせないと聞いている。馬が手に入ったので、二人は楽に逃げられたのだという。
「たぶん殿が……、父上が、私たちのために城外に放してくれたのだろう」
薫は、ためらいながらも「殿」を「父上」と言い直した。それは、本当にこの言葉を口にしてもよいのかどうか、自分に確認しているようだった。
「で、左京さんは?」
「無事だ。東の山中に隠れ住んでいる。私も今朝までそこにいた。もっと早くに探しに来たかったのだが、追っ手が厳しくて動きが取れなかったのだ」
最後のほうは言い訳するような口調だった。
「もっと早くって、これ以上早く来れるんかい」
笑いながら返すと、薫は膨れっ面になった。
「嫌みな奴だ。言っておくがな、私たちは三日待ったのだぞ。それでも来ないから、左京殿が諦めろと……」
「三日?」
思わず話を遮った。
「ああ、左京殿は一日待って来なければ先に行くと言ったが、私が言い張ったものだから三日付き合ってくれたのだ。しかし、追手が迫って、――まあ、左京殿がすべて切り捨ててくれたのだが――、それ以上は無理だった。三河に行く道も塞がれて、仕方なく、山に籠っていたのだ。もちろん、私は二人が無事でいると信じていたぞ」
何か話がおかしい。
「それで、今までどこにいたのだ。まさか、捕まっていたのか?」
返事ができない。しかし、薫はかまわずしゃべり続ける。
「もう十月以上もお会いしていないが、菊千代君は大きくなられたであろうか」
「ちょ、ちょい待てよ。十月以上って?」
翔の叫びに、薫は目をパチパチさせた。
「だから、翔と別れてから、もうすぐ十一カ月になるって……」
「は、はぁ?」
大声と共に、周囲を見つめ直す。この辺りは楠や椿のような常緑樹が多い。その中にぽつぽつと生える落葉樹を探した。桜に欅に榎に……。それらは皆、裸だった。ということは、今は冬。寒くて当たり前!
「ってことは、十一カ月だけ時間を飛び越えた、っつーわけ?」
じゃあ、菊は……?
「待っても来ない、かもしれない」
胸が締め付けられるように苦しい。
「えっ?」
薫が振り返る。大きな瞳を、一層見開いて。
「ごめん。俺……、守り切れんかった……」
翔は、両手をついて頭を垂れた。唇を痛いほど噛み締める。熱いものが頬を伝うが、止めようがない。
「いったいどうしたというのだ。わけを話してくれ」
薫は翔の顔をのぞき込むようにして、両の手を取った。促されて、ぽつりぽつりといきさつを話す。
「つまり、菊千代君は、一人でどこか別の未来に行ってしまったかもしれない、ということか」
ため息まじりの言葉に、黙ってうなずく。
「まあ、翔のせいでもなかろう。それこそ、運命というものの仕業だ。それに、捕らえられたという噂も聞かぬから、無事なことだけは確かだ」
薫は翔の肩を叩いた。しかし、気分が晴れるはずもない。
「ほら、元気を出せ。なあに、菊千代君はお小さいとはいえ、穂積家の御嫡男。確かに少々泣き虫ではあられたが、その程度でへこたれるほど弱くはなかろう」
そう言って、にっこりと微笑んだ。薫の笑顔はいつでも明るい。いつもなら元気づけられるその笑顔が、今日はなぜか苦しかった。
薫は拾い児として、しかも男として育てられた。父、義直の策略だ。真実が分ったのは、城が落ちる直前。父は城と共に燃え、弟はどこへいったか分らない。
その気持ちを察したように、薫は翔の肩を叩いた。
「気にするな。人はもともと一人で生まれ、一人で死んでいくものだ」
翔は、ぶるっと体を震わせた。寒いせいではない。
(しゃんとせな。俺の方が慰められて、どうすんや)
「それより、匂殿のことだが……」
その名前に、一瞬、心が固まる。顔を上げると、真剣な表情が目に映る。
「実は、生きていることが分かった」
「ホンマかよ」
思わず身を乗り出す。
「ああ。館に火を放ち自害しようとしたところを、秀吉方の忍びに助けられたらしい。今は広野の平井氏のもとに捕らえられていると聞く」
広野という町は、河波平野の北端を東西に走る、鷹尾山脈を越えたところにある。そして、薫はそこへ向かう途中だという。
「左京殿はだめだと言う。もし、私が本物の娘だと知れたらどうすると。だが……」
薫はぐっと息を呑み、拳を握り締めた。痛いほど、彼女の気持ちが伝わってくる。匂は、薫の身代わりになって捕まったのだ。
「分かった。一緒に行こう」
一転して、薫の表情が輝いた。
「本当か、ありがたい。ここに来れば会える気がしたのだが、遠回りしたかいがあった」
翔の手を取ると、握り締めた。
向こうでは、白竜が蹄を鳴らして待っている。
薫は翔を引っ張るように、馬に向かって走りだした。




