花菱の夢(20)壱の夢 山桜②
壱の夢
山桜②
どこへ行く当てもなく、ゆらゆらと漂うように足を運んでいると、何か引きずったような跡が道を横切っていた。
視線を動かすと、生垣から人の足がはみ出している。裏に回ると、男があおむけに倒れていた。牢番だった。頸動脈を切られたのか、頭の周りには血だまりがあった。
(死んでる……。何で?)
思い当たることは、一つしかなかった。
牢番は鍵を持っていたはずで、その鍵を今持っている人は?
(まさか、あの人が! 違う、絶対違う)
思わず駆け出した。とにかく、この場を離れたい。
橋を渡り、堀川の土手で立ち止まる。荒い息を整える。川面に映る月が、今の自分のように思われた。波に揺られて、不安定に泣いている。
ホケーっと上流に目をやる。その目に、高穂城が映った。
(あそこに、菊がいる……。あいつも死ぬつもりなんやろか。親父さんと一緒に。たかが十年生きただけで……?)
言いようのない怒りが込み上げてきた。ムカムカと吐き気さえ感じる。
(間違ってる。そんな生き方は)
翔は城を睨みつけ、大きく息を吸うと、うわーと声を上げ走り始めた。
高穂城は、鴉山の頂にある。段々畑のように砦と石垣に囲まれて、天守閣がある。上り道は二つ。北西の搦め手門への道は、細く、急である。翔が向かった南向きの大手門に至る道には、二の丸、三の丸と二つの砦がある。さらに、この二日間で幾つもの空堀が掘られ、道が切れて通れなくなっていた。
もちろん、翔は城について何の情報ももっていなかったので、容易に近づけないことには気づいてもいなかった。真っ暗な山道を、ただ、勢いだけで登っていく。城への上り口にさしかかったとき、後ろに蹄の音を聞き、慌てて傍らの木に隠れた。
それは、夜目にも白い馬だった。
「薫!」
駆け抜ける馬の背に呼びかけたが、返事はなかった。
必死で追いかけた。けれどその差は開くばかりで、急な上りにとうとう足が上がらなくなった。ハアハアと肩で息をし、悔しそうに闇の向こうを見つめていると、後ろから、また馬の走る音が近づいてきた。
「天竜 」
闇に溶けそうな黒馬は、前足を高く上げた。乗り手は、翔を踏みつぶさぬように手綱を引いた。
「翔殿。どうしてここに」
「匂さんに助けられて」
「匂殿に! では、匂殿とお会いになったのですか」
その驚きように、翔の方が驚いた。
「匂さんは、左京さんと薫が二人で逃げたって言うたけど」
「匂殿がそう言いましたか」
「はい」
「それは嘘です。私と薫は、匂殿を守って逃げたのです。しかし、肝心の匂殿が途中で行方をくらまし、薫は城へ戻ったに違いないと」
「そいで、あんなに急いで」
翔はちょっと笑った。助かる見込みが何もない状況の中に飛び込んで行くアホは、自分だけではない。この時代にはたくさんいたのだ。
「お乗りなさい。城まで案内しよう」
二人を乗せた馬は、力強い足取りで山を登って行く。空堀を飛び越し、柵を乗り越え、その名の通り、天に昇る竜のように。その雄姿に、兵は皆、道をあけた。
大手門が見えてきた。左京は、馬上から声を張り上げた。
「開門 。左京が戻ったと、殿に伝えあれ 」
城の中は、すっかり戦闘準備が整っていた。弓の張りを確かめる者、槍の穂先を磨く者、火縄銃の点検をする者。皆、具足をまとい、腰には刀を携えていた。明々と篝火が揺れ、せわしなく動き回る彼らを影絵のように映し出す。左京の後をついて、その横をすり抜ける。興奮と熱気が、空気感染するウイルスのように翔の気持ちも高めていく。
ざわめきに交じって、薫の声が聞こえてきた。
「どこへ行かれたか、本当にご存知ないのですか」
それは、今にも泣き出しそうな色を帯びていた。
「知らぬといっておろう」
答える義直の声は、いらついていた。
「しかし、殿が何か命じられたのでないなら、どうして匂殿はいなくなってしまったのですか」
「しつこい」
薫が、義直にすがりつくように問いかけている。傍らには、菊千代がおろおろした表情で立っている。その小さな体に不似合いな甲冑が、まるで、彼に科せられた運命のように思えた。
「殿」
左京の声に振り向いた義直は、翔を見て目をむいた。
「なぜ、お前が生きているのだ。牢番は何をしているのだ」
「あの……、その人、死んでました。何でか知らんけど」
「役立たずめが。こ奴つを殺せと命じたのに、自分が殺されてどうする」
「あの、殺したのは俺じゃないので……」
「分かっておるわ。お前に人が殺せるものか。左京、お前が助けたのか」
「連れてきたのは私ですが、助けたのは匂殿だそうです」
「匂が」
「匂殿が」
義直と薫が、一緒に声を上げた。
それから、しばしの沈黙。
事の成り行きが分からず、皆それぞれの思いをめぐらしていたのだろう。けれど、翔にとって、その沈黙は、悪さをして職員室に呼び出されたときよりも不気味だった。
最初に思いをまとめたのは、左京だった。
「つまり、匂殿は、翔殿を助けるために我等の前から姿を消した、というわけですね。一言言ってくだされば、お手伝いしたものを」
そう言って、ため息をついた。
「牢番を殺ったのも匂か……。全く、何を考えておるのだ、あの娘は」
義直の大きな目がかっと開かれ、般若のように自分を睨んでいる。背筋に沿って、背中の毛が一斉に逆立つのを感じた。
「それで、匂殿は今どこに」
薫が、今度は翔にすがり付いてきた。
「あ、その、今は分からんけど、あのときは館に戻るって。火をつけるからって」
三人が目をむいて翔を睨みつけた。六つの三白眼が、翔を金縛りにする。
(やっぱ、俺、殺されるんかな……)
翔の命を救ったのは、そのとき鳴り響いた鉦の音だった。
皆驚いて、互いに見つめ合う。その顔は、どれも緊張に満ちていた。
「殿 」
家臣が一人、転がるようにかけて来た。
「どうした。今の鉦は何じゃ」
義直は、それでも落ち着いていた。
「申し上げます。田原氏の軍勢が、いつの間にか城を取り巻いておりました。裏切りです。もはや、川沿いに陣を張る我が軍と連絡を取ることもできません」
「伯父上が? 本当に?」
菊千代が悲鳴のように叫んだ。
しかし義直は、静かに口元をほころばせた。
「賢い選択だ」
それは、皮肉ではなかった。
この時代、大切なのは生き残ること。そのためには、強いほうに尻尾を振る。非情なように思えても、国土を戦火にさらし、罪なき人々を飢えに追い込むよりも、名君といえるのかもしれない。
「秀吉には勝てぬかもしれぬ。されど、軍門に降ったとて、領土の保証も一族の保証もない。ならば、戦い抜くだけ。そう決めた私は、たぶん阿呆だ」
義直にも他の選択肢があったはずだ。しかし、彼は自分の誇りにこだわり、滅びへの道を選んだ。
人の道は、護るべきものが何であるかによって変わるのだ。
その道を確かめるように、義直は庭に下りた。家臣たちが、腰を低くして命令を待っている。遠く南の空が、夜明けのようにほんのりと赤く染まっている。
「見よ、よう燃えておるわ」
翔は奥歯をかみしめた。
燃えているのは、館。まだ、匂がいるかもしれない所。拒絶されてもついて行くべきだった。
その気持ちが伝わったかのように、義直がつぶやいた。
「あれは強い娘だ。少々のことで死ぬこともなかろう」
それから、持てる力のすべてを出し切るような声を上げた。
「迎え撃て。城に近寄らせるな。裏切ったことを後悔させるのだ」
おおーという声があがり、兵たちが散らばっていく。
振り向いた義直の目は、不思議な優しさに満ちていた。
「今からでも遅くはない。薫、おまえは左京と逃げよ。山を越え、三河まで行け。徳川殿は、きっと匿ってくれよう」
「殿、なぜそのような事を。私は死ぬ覚悟はできております」
取り乱したように叫ぶ薫の頬を、義直の手のひらが包んだ。
「お前には生きて欲しいから、娘よ」
「むすめ……?」
「そう、お前こそが私の娘、穂積薫だ」




