花菱の夢(19)壱の夢 山桜①
壱の夢
山桜①
「駄目やと思うってことは、
既に負けてるってことや」
分かっとる、瑞穂。
そやけど、俺はアカンね。怖いんや。
俺んなかにもう一人、
俺やない誰かがおって、
暴れたくてうずうずしてる。
竹刀握ったら、
また、誰かを傷つけてしまう。
そいが怖いんや。
頼むから分かってくれ。
おい、瑞穂。ちょい待てよ。
どこ行くんや。瑞穂……。
ガクッと体が崩れ落ちて、翔は目を開けた。格子の隙間から夜空が見えた。
(そうや、牢の中や)
いつの間に眠っていたのだろう。どれくらい経つのだろう。
こんな状況だというのに、しかも立ったまま眠れる自分に、我ながら呆れてしまう。
牢の中は狭く、川に近いためか床土がじめじめしていた。座ると水がしみてきそうで、ずっと壁にもたれて立っていたのだ。
牢の穴は、土塁との境目に掘られていて、顔の高さに入口の格子があり、頭の上には土塁がある。低い天井は地震でも起こったら落ちてきそうで、圧迫感に満ちていた。
相手が左京だったので自分から飛び降りたが、そうでなかったら牢番を蹴り落していただろう。
入った時は、まだ明るかった。夜が過ぎ、朝が来たのは覚えている。遠くから聞こえてくる、人のざわめき、馬のいななき、擦れ合う武具の音。そんな物音に神経をいらだたせ、歯軋りしながら拳で壁を殴りつけた。格子戸を揺さぶり、牢番に「出せ」とわめいて槍を突き付けられた。水だけが与えられ、空腹と疲労で眠ってしまったのだろう。
今は、時間の流れが止まったかのように静かだった。牢の中の澱んだ空気だけが胸をざわつかせた。
秀吉の軍はもう上陸したのか。戦闘は、今、どの辺りで行われているのか。
じっと入口を見つめる。逃げ出すとすれば、そこしかない。
牢番もいつの間にか姿を消し、人の気配はない。今なら何とか逃げ出せるのではないか。
扉の格子をつかんでゆすってみる。残念ながらびくともしない。
そのとき、足音がした。
翔は、はっと身構えた。大きな不安と少しの期待が彼を包む。
現れたのは牢番だった。何が可笑しいのか、にやにやしている。
「飯だ。最後になるだろうから、しっかり食っておくんだな」
(最後……てことは、やっぱ打ち首?)
牢番が、格子戸についている小窓に手を伸ばしたときだった。「うわぁー」という叫び声のようなものが聞こえてきた。
「何だ?」
牢番は飯椀を地面に置くと、急いで引き返してしまった。
(ちょっと、これはないやろ)
目の前に食べ物があると思うと、急速におなかがすいてくる。格子の隙間から手を伸ばしてみたが、もう少しのところで届かない。
食べ物を手に入れるためにも、この扉を破らねば。
揺さぶったりぶら下がったりを繰り返していると、ふわりと、梅の花の匂いが漂った。
「匂さん?」
月明かりに軽やかに浮かび上がるその姿は、正に天女に見えた。
しかし、麗しの天女は、無情にも飯椀を蹴飛ばしてひっくり返してしまった。
「あっ……」
思わず指をくわえる。
「毒入りを食べたいですか」
冷たく言い放ち、匂は閂に手をかけた。カタカタと音がして、扉が開く。白い掌が差し出される。迷わずつかんだ。柔らかく冷たい手が、自分を引き上げてくれた。
「匂さん……」
感激の余り言葉も出ない翔に、匂は包みを差し出した。
「これを。貴方様のお着物です」
翔は受け取り、少しためらった後、思い切って着物を脱いだ。逃げるなら、動きやすい服装の方がいい。
下着は、匂が仕立ててくれたものだった。匂は、それをじっと見ている。視線が恥ずかしくて、指先が奮える。焦るほど、ジャージがうまくはけない。やっとのことで引っ張りあげると、トランクスをポケットにねじ込んだ。
「ありがとう。いろいろと」
辛うじて、お礼の言葉が出てきた。
「他のみんなは……薫や菊や、左京さんはどうしてるんだい」
「薫は今頃、左京殿に連れられて、どこか山の中を逃げておいででしょう」
その声は、どことなく刺があった。
「けれど、菊千代は父上と共に城に入りました」
「城?」
城は焼け落ちるのだ。しかも、明日。
「はい。この辺りには、もう、人がいません」
どうりで静かなはずだった。
「何で、わざわざ城へ行くんや。館で戦えばええのに。そのために堀があるんやろ」
匂は、クスッと笑った。
「あなた様は、本当に戦を知らぬお方。あの程度の堀で、敵を防げるとお思いですか」
翔は、顔が赤らむのを感じた。
言われて初めて思い出したが、堀川は幅こそあるものの水量はほとんどない。水の少ない季節なら、歩いて渡ることも可能だ。広すぎる敷地を守るには、兵も武器も不足していた。同じ篭城するなら、守り易い、攻め難い、城の方が良い。戦う意思のある者は、男も女も、武器、食料と共に城へ入り、そうでない者は山へ逃げ込んだという。
「敵は、翔殿のおっしゃった通り西から来ました。我が軍は、北から陸を通ってくると踏んでいたので、兵をそちらに回しており、気づいたときには遅かったのです。なんとか波迅川でくい止めたものの、明日はここに攻め寄せるでしょう。ですから、翔殿も早くお逃げください」
「匂さんはどうするの」
「私は……」
言いながら、匂は目を伏せた。
「穂積の娘としての務めがあります」
「務め?」
誰もいない館に、どんな用があるというのだろう。
「館に火を放ちます」
「えっ? なんで?」
匂は、呆れたようにため息をつく。
「本当に、何も知らないのですね。館があれば、敵は寝泊まりに困りません。籠城が不利になるだけです」
「あ、そっか。なら、俺も手伝う。それから一緒に逃げよう」
とたんに、匂は声を荒げた。
「いけません。死んでもいいのですか」
その口を、はっとしたように閉じる。
翔は、真っすぐ匂を見つめた。
「匂さんは、死ぬ気なの」
匂は、黙って視線をそらす。
「俺は嫌や。死ぬのは嫌や。匂さんが死ぬのはもっと嫌や。好きやから、生きて欲しい」 ぽろっと本音がこぼれてしまい、翔は慌てた。言う前は正常だった脈拍が、一挙に倍になった。心拍数もGREAT UP。グワワーッと体中が発熱している。
「いや、その、好きっていうのは、薫や菊のことも好きやし、だから、その、皆に、生きていてほしい、ってことで……」
必死に言い繕う翔を、匂がさえぎった。
「私には、思う人がいます」
圧し殺すような声。
「左京……さん?」
自分の声が震えるのが分った。
「いえ……、そう。そう、左京殿です」
「そやけど、左京さんは薫と逃げたんやろ。だったら、追いかけ……」
匂は、きっと顔を上げて声を粗げた。
「そのような恥ずかしい真似ができますか。あなたはもうご存知なのでしょう、薫が女だということを。つまり、左京殿は私ではなく薫を選んだのですよ」
アッと、翔は口を抑えた。匂は、更に追い打ちをかける。
「それに、私があなたに近づいたのは父上の命だったからです。あなたを惑わせ、正体を見抜けと。敵を裏切らせ、情報を得よと」
「そんな、おかしいやないか。自分の娘にそんなこと」
「娘でも何でも、使えるものは使う。それが穂積義直です。第一、あなたは自分が私にふさわしい人間だと思っているのですか」
言葉がグサッと突き刺さる。
「槍も使えぬ、馬にも乗れぬ。おまけに、毒入り飯を食おうとする。それで一緒になど、よく言えたものですね。足手まといなだけです」
刺さった言葉が内臓をえぐる。
「目障りです。さっさとどこかへお行きなさい」
心臓が止まったように、体中の力が抜けていく。情けない表情を見られたくなくて、顔を背ける。
その肩に、そっと匂の手が触れた。
「これを……」
細い紐が、翔の首にかけられた。お守りのような、小さな繻子の袋がついている。中には、何か堅いものが入っていた。
「あなたさまの時計です。もう一度、お命を守ってくれますように」
そうして、静かに体を離した。
次の瞬間、匂は馬に飛び乗っていた。そのまま走り去る。
翔は、呆然と見送るしかなかった。