花菱の夢(18)壱の夢 紅梅⑩
壱の夢
紅梅⑩
夜。義直は障子越しに言い争っていた。
「ですから、私には、彼が間者とは思えません。命を取る必要などないと思います」
「そちまでそのようなたわごとを申すのか。一体あやつは、どんな手を使ってそちらを手なずけたのだ」
「手なずけられたなど。私は、無用な殺生を避けたいだけです」
「うるさい」
声より早く、盃が飛んでいた。障子を破り、その向こうにいる人間を真っ直ぐ狙って。手応えはあった。しかし、相手は微動だにしなかった。
「お前は自分の成すべき事だけを成せば良いのだ」
目の前の邪魔はすべて切り捨てる、そんな怒りを帯びた声だった。
障子の向こうが、しばし黙した。
「分かりました」
静かに答えて、姿を消す。
肩を落としたその背中を、今日も一つの影が見送っていた。
「集まったか」
三郎太の声に、鬼介はうなずいた。
「明日は、穴掘りだ。皆に伝えておいてくれ」
「古い坑道に宝でもあるのか」
「かも知れぬ」
「訳も分からず動く者などいないぞ」
「明日、教えてやるよ」
鬼介は、不満そうに言葉を返した。
「それより、俺に人集めをさせておいて、その間、おぬしは何をしていたのだ」
「人集めだ」
そう言って、三郎太は、何かを思い出したようにふふふっと笑った。
「十人や二十人じゃない。大軍だ。……それより、田原と穂積とどちらが賢いか、賭をしないか」
「はあ?」
鬼介は訳が分からないという顔をしたが、三郎太は可笑しそうに笑うだけだった。
町並みが見えるはずのところまで来たとき、やっと瑞穂は足を止めた。ハアハアと肩で息をし、座り込みそうになるのを辛うじて堪え、辺りを見回した。
(この景色は、一体……)
家がほとんどなく、延々と畑が続いている。その家も、土壁に草葺屋根の掘っ立て小屋ばかりだ。雑草に覆われた石ころだらけの細道には、轍の跡はあるものの、車どころか自転車すらも見かけない。人の姿もなく、それでも人間が住んでいる証拠のように、麦の穂が揺れていた。
瑞穂は目を閉じ、今見た光景を追い出そうとするように頭を振った。が、その目を開けたとき、相変わらず荒涼とした風景がそこにあった。
不安が決定的になったのは、堀川橋まで来たときだった。
コンクリートの橋はなく、石造りの橋がかかっていた。そして、その向こうは、一面の焼け野原だった。学校も、集落も、何も見あたらない。あるのは、火傷の痕のような焦げ目を持つ木々だけだった。辛うじて残った枝葉の透き間から、波迅川がきらめくのが見えた。
頭を横切ったのは、「核の冬」という言葉だった。
廃墟になった町を病人のようにふらついていると、後ろからカポカポと、聞き覚えのない音が聞こえてきた。振り返って、それが馬の蹄の音だと分かった。
(何で……)
食い入るように馬の背に揺られている男を見つめた。それは、どう見ても、戦国時代の侍だった。傍らに三人の男が歩いていたが、みな、具足を身に着け槍を手にしている。
「何だ、お前」
男の一人が、瑞穂を見咎めた。
「妙ななりをしておる」
と、その男が驚いたように瑞穂を指さした。
「この顔!」
八個の目が、一斉に瑞穂に向けられた。次に、互いの顔を見つめあい、うなずきあったかと思うと、瑞穂を取り囲んだ。男達が、ゆっくりと周りを回り始めた。その輪が、だんだんと縮まってくる。
言いようのない恐怖にかられた時だった。馬上の男が、刀を抜いた。
「その顔、高岡左京が小姓、橘薫と見受ける。神妙にいたせ」
三方から、槍の穂先が瑞穂に狙いを定める。
「イヤー、何すんのよー」
悲鳴は焼け野に響き渡った。が、応えるものはいなかった。