花菱の夢(17)壱の夢 紅梅⑨
壱の夢
紅梅⑨
「何が二日しかないのだ」
「城が落ちるまでや」
翔の言葉に、薫は笑った。
「嘘だろう」
「ホンマや」
「どうしてそんなことが分かる」
「俺は未来から来たんや」
「みらい? それはイスパニャかどこか、伴天連の国か?」
けげんそうな顔つきの薫に、初めて事のあらましを説明した。なぜ、もっと早くに打ち明けなかったのか悔やまれたが、今更言っても仕方がない。
薫は納得しかねるようだったが、それでも、「殿に申し上げねば」と馬を走らせた。そして、翔の心臓は、もっと速く走り始めていた。
館は、朝より一層ごった返していた。皆忙しそうで、二人の行動を気に留めるものなどいないように思えた。
が、左京は違った。二人を見つけると、駆け寄って来た。
「薫。今までどこへ行っていたのだ」
「實継の所です。それより殿は?」
「殿に何か?」
「はい。翔の話が本当だとしたら、大変なことになります」
話しながら急ぐ二人の後を、翔は追いかけた。
初めて入る母屋の一室で、翔は薫と待たされた。待つほどに心臓の音は大きくなり、息も荒くなってくる。やっと戻って来た左京の招きで奥の部屋に入ったが、緊張と不安のため立派な調度も目にはいらなかった。
顔を上げると、正面に義直が座っていた。一度だけ体感したあの威厳が、前にも増して迫ってくる。
隣には、菊千代も座っていた。しかし、義直は、薫にはこう言った。
「薫、お前は向こうで待つように」
思わず言葉が飛び出した。
「いえ、薫殿もぜひ」
義直の不機嫌そうな視線が、翔の上に落ちた。
「話とは何だ」
「実は……」
翔は、さっき薫にした話を繰り返した。義直に話せば何とかなると思っていた。しかし、話しながらも不安は募る一方だった。
(信じてもらえるやろか)
迷いながらも話すしかない。
「……という訳で、秀吉軍は明日にでも日浦の沖にやって来ます」
日浦というのは、波迅市の西にある御崎町の魚港で、河波町からは車で約三十分。
「沖に? 陸からではなく?」
義直の瞳が、優しげな口調とは裏腹に鋭く光る。
「そのようなことはあるまい。たとえ海から来るにせよ、まず紀北から。雑賀に根来、それに粉河。共に容易く敗れる相手ではない」
「いえ、紀北と同時に攻めて来ます」
「秀吉にそれだけの船が出せるかな?」
「毛利水軍が船を出します」
「毛利が? 毛利は信長の本願寺攻め以来、我らや雑賀とは同盟じゃ」
「そやけど、本能寺の変で秀吉の計略にかかっています。今は、いやでも秀吉に力を貸さねばならない状況です。それに、田原広茂が裏切ります」
「伯父上が? まさか!」
菊千代が、細い声を張り上げた。
一瞬、しまったと後悔した。菊千代の気持ちを考えていなかった。けれど、史実は事実だ。翔の記憶に間違いがなければ、の話だが。
「田原氏は、戦に反対しているはずです」
「それで、わしにどうせよと言うのだ」
怒りといらだちがあふれる声に、不安が募る。が、言わねばならぬ。
「戦は避けるべきです」
「降伏せよと申すのか」
「はい」
突然、義直が笑い始めた。翔は、気でも狂ったのかとポカンと彼を見つめた。
義直はひとしきり笑うと、真顔になった。
「それが、そちの作戦か」
「はあ?」
「なかなか面白い話であった。が、もう少し上手い話を作らねば、この義直はだませぬぞ」
「嘘やない」
思わず叫んでいた。が、義直の目付きが鋭くなっただけだった。
「秀吉は忍びの使い方が上手いと聞いていたが、この程度とはな」
話の筋が読み取れない。
「秀吉の命で、この地を混乱させようというのだろうが、そのくらい、最初から見抜いておったわ」
これで、やっと理解できた。つまり、「翔にはスパイ容疑がかかっていたが、しっぽを出すまで泳がせておいた」ということだろう。
「俺は、秀吉の手先やない」
「では、なぜ、降伏せよと言う」
「そやから、今言った通り……」
「翔とやら。お前は未来とかいうところから来たから先のことが分かると言う。が、それが本当かどうか、我等には確かめる術はない」
「それは……」
「まだ、神のお告げがあったとでも言う方が、信憑性があっただろうに」
「嘘やない」
「ああ、そうかもしれぬ。お前は本当のことを言っているのかも知れぬ。が、しかし」
義直の表情が一変したかと思うと、荒々しい声が投げ付けられた。
「我が一族は清和源氏の後裔、甲斐武田の血筋。たとえ負けると分かっていても、戦わずして降伏するなどという恥ずかしいまねができると思っておるのか」
その表情と口調が、「待つだけの女にはなりたくない」と言った薫と重なった。
どこからそういう情熱が出てくるのか、翔には不思議だった。それでも、引き下がる訳にはいかない。何としても、説得せねば。
「今は秀吉に逆らっても無駄です。そやけど、秀吉の時代はすぐ終わる。次は徳川や。そやから、今は負けても時を待てば……」
興奮して言葉が乱れる。それを義直が遮った。
「つまり、いつまで待っても私の時代は来ないという訳だ。今滅びるか、後になるか、滅びの時期がずれるだけではないのか」
「そやけど、大名として生き残れば……」
「そちは先程、滅びると言ったではないか。それは嘘だったのか。それとも未来とやらは変えられるというのか」
翔は言葉に詰まった。未来を変えようなどと思ってもいない。みんなを助けたい。それだけだ。しかし、もしそのせいで歴史が変わったとすると、今未来に生きている人々はどうなるのだろう。父は、母は、友達は、何より自分自身は……。
答えられずにいると、義直は、勝負有りという顔で立ち上がった。
「高岡、こ奴を牢に放り込め。手向かいするなら斬り捨てよ」
そう言い残し、荒々しく部屋を出て行った。
「父上、お待ち下さい」
菊千代が後を追ったが、義直は振り向きもしなかった。
気まずい雰囲気だけが後に残った。
重苦しい空気を打ち破って、左京が言った。
「参りましょうか」
うなずくしかなかった。
ここで暴れても、どうにもならない。左京と翔とでは、格が違い過ぎる。そして、左京は主人の命には必ず従う男だ。本気で翔を斬るだろう。まだ死にたくはない。
唇をかみしめ、左京の後に続いた。
薫が黙ってついてくる。何も言わないけれど、その気持ちが表情に溢れている。
薫は後悔していた。軽率であったと、自分を責めていた。
それが一層つらかった。
馬屋の前を通ったとき、今朝のことが思い出された。あの時の笑顔が、遠い昔のことのようだった。
館の東側、新堀川に沿って土塁が築かれている。新堀川を掘ったときに出てきた土を防御のために積み上げてできたもので、現代では桜が植えられ町民の憩いの場となっている。その南橋に、牢があった。地面を掘っただけの穴倉で、戦時中の防空壕のようなものだった。
「薫……」
牢の前で、翔は初めて口を開いた。
薫も顔を上げて翔を見た。大きな瞳は哀しみに満ち、いつもの輝きはなかった。
薫の笑顔が見たい。心底思った。けれど、「笑ってくれ」なんて、ドラマみたいな台詞は出てこない。
「死んだらあかんぞ」
置いてきぼりでもいいじゃないか、生きることが大切だ。そう言いたかった。
でも、言えなかった。言わなくても分かってくれる気がした。
薫はうなずき、翔は牢番に引き渡された。
扉が閉まり、閂の掛かる音が聞こえた。
暗闇と沈黙が、翔にのしかかってきた。