花菱の夢(16)壱の夢 紅梅⑧
紅梅⑧
鍛治屋からの帰り道、無言で馬に跨がる薫に、翔は後ろから声をかけた。
「おい、ホンマに戦は近いんか」
しかし、その声は無視された。
「ったく。刀のことくらいですねるなよ」
薫は、それでも構わず先を急ぐ。しかし、館の近くまで来ると、急に道をそれた。
「え? 戻るんやないの」
「いや、まだ早い。少し休んで行こう」
薫は振り向きもせず答える。
二人を乗せた馬は、堀川沿いの道を遡り始めた。
左手の山並みを振り仰ぐ。雷山も烏山も、四百年後と変わらぬ姿で座り込んでいる。山にとっては、四百年という年月も、四年ぐらいかもしれない。違うのは、松の葉陰に見え隠れする高穂城だけだ。
(もとの時代に戻れるんやろか……)
いつもと違う薫の様子が、翔を不安にさせる。
しばらくして、やっと薫が口を開いた。
「戦になったら、翔はどうする」
「どうって……」
「さっきの様子では戦は嫌いのようだが……、逃げるのか?」
翔は答えに困った。考えたこともなかった。自分の生まれ育った時代にあっては、そんな考えは不用だった。人は殺してはいけないし、傷つけてもいけない。それだけがすべてで、だからこそ、自分が瑞穂にしてしまったことが恐ろしかった。些細なことでカッとなり、結果を考えず行動した。そんな自分が怖かった。
戦というものは、きっと、そんな自分の内面との対決に違いない。自分の行動に少しでも疑問を持った方が負けるのだ。それは、とてつもなく恐ろしいことだった。
「私は……、私も戦は嫌いだ。でも、おいていかれるのはもっと嫌だ」
薫は、吐き捨てるように言った。
「おいてかれるって、誰に?」
薫は、それには答えず馬を降りた。仕方なく、翔も降りる。
正面に、薫が立っている。自分を見つめる瞳の色が、今までとは違う、哀しみを帯びている。
「気づいたと思うが、私は女だ」
思わず息を止め、ゴクッとつばを飲んだ。
「このことは、誰にも言わないで欲しい。左京殿にも、匂殿にも、もちろん殿にも」
「みんな、知らないのかい」
「いや、今言った三人のお方はご存知だ。翔が知ったということを知らさないで欲しいのだ。これは、菊千代君にさえ内緒にしていることなのだから」
「ああ……」
やはり、大変な秘密なんだ。それを自分などに言ってよいのだろうか。
「私は、殿に拾われた。そして、殿は、私に男になれと命じた」
薫は、もうこれ以上黙っていることはできないというように、一気に話し始めた。
十五年前、「匂」が生まれた三月後に、義直は赤ん坊を拾った。それが「薫」だ。
「花盛りの橘の根元に捨てられていたらしい。それで、橘薫だ。翔は笑ったが、私にとっては殿から賜った大切な名前だ。この馬だって」
そう言いながら、薫は白竜のたてがみを撫でた。馬はうれしそうに、主人に鼻面を寄せた。
「私のような身分で持てるものではない。左京殿が天竜を頂いたので、それまで乗っていたこの子を私に下さったのだ。私は、皆に可愛がられている。有難いことだ」
たたら場の門番や、實継の親しそうな笑みを思い出す。
「私が八歳のときだ。匂殿の母上がお亡くなりになられたのは。殿は雑賀衆を助けて兵を出していた。相手は信長だ。桂殿は、毎日、館にある神社に殿のご無事をお祈りされていた。その懸命なお姿は、今でもはっきり覚えている」
子安神社は、翔の時代でも小学校横に存在している。義直が妻の安産を祈願して建立したと言われ、こんもりと小さな森には、戌の日になるとお札を買う客の姿があった。
「お祈りの甲斐あって殿は無事帰られたが、ご自分が井戸に落ちて亡くなられた」
義直に「男として生きよ」と命じられたのは、その直後のことらしい。
「男は、戦で死ぬかも知れぬ。私は、残されて泣くのは嫌だ。桂殿のように、帰りを待ちながら死ぬのも嫌だ。私は待つだけの女にはなりたくない。だから、男として生きるのは平気だった。それなのに……」
薫はそこで言葉を止めた。泣いているのかと思った。が、そうではなかった。彼女の目は水面を見つめていた。小石を一つ拾うと、高く放り投げた。波紋が波に流されて行く。
「去年の戦のとき、私はおいていかれたのだ」
「誰に」
「左京殿に」
言っている意味が、よく分からなかった。
「私は、左京殿の小姓なのだ。あの方のお傍にいるのが仕事だ。殿や左京殿のためなら命など惜しくないと思っているのに。おいていかれた。本当は、女だからだ。なら、何のために男として育てた。一体、私は何なのだ」
薫の口調が激しくなる。
「女になど生まれたくなかったわ」
薫は、また一つ、石を放った。波紋が消えるのを待って、次を放る。
「そやけど、そんな秘密を俺なんかにしゃべっちまってええんかい」
「左京殿は、翔が秀吉方の間者ではないかと疑っておられる。けれど、私にはそうは思えぬ。崖から落ちて気を失う。槍も扱えねば馬にも乗れぬ。そんな間抜けに間者が務まるとは、とても考えられぬ」
「それって、バカにしてるわけ?」
「信じているのだ」
即座に答えた薫の言葉に、ほんのりと胸が熱くなる。
「もちろん、間の抜けたふりをしているだけだと考えることもできる。敵を油断させるための手段だと。だが、そうやって疑いだせばきりがない。それよりも、私は信じたい。そのほうが、私の性に合っている」
薫が真剣な瞳で翔を見つめた。翔も、その目を見つめ返した。
「ありがとう」
驚くほど素直に、その言葉が出てきた。
「何だか、お前とは初めて会ったという気がしないのだ。不思議なことだ」
薫が口元をほころばせる。翔も瑞穂を思い浮かべ、微笑んだ。
幾つ放っただろう。その手を止め、川下に目をやった。
「おや、もう会が終わったようだ」
なるほど、館から出て来た人馬が、あちこちに散って行く。
「我らも戻るとするか」
薫は、草を食んでいた白竜の手綱を取った。
翔は、ふと思いついて聞いてみた。
「さっき、去年の戦って言ったろう。何の戦や」
呆れたように、薫は肩をすくめた。
「本当にもの知らずだなあ。徳川殿が秀吉に仕掛けた戦だ」
「徳川が?」
「ああ。小牧山に陣を張り、犬山城の秀吉と争った」
(ああ、小牧・長久手の戦いか)
ふんふんとうなずく。それくらいなら知っている。
「殿は、雑賀・根来らと共に徳川殿に味方し、秀吉の背後を攻めたのだ」
不意に、嫌な予感が胸をかすめた。
「去年やって」
頬が強ばるのを抑えることができなかった。
「そう、もうすぐ一年になるかな」
翔は、授業を思い出そうと必死になった。
先生は、確かこう言ったはずだ。小牧・長久手の戦いで雑賀の鉄砲隊や根来の僧兵に手を焼いたため、秀吉は、翌年紀州に侵攻したと。それが今回の挙兵だとすれば、穂積家の滅亡は……今年の三月二十二日? しかし、どうみても今は四月上旬。それを証明するかのように、突風が桜吹雪を舞いあげた。
とたんに、あの日の光景が蘇ってきた。
サウナのような教室で、先生が言う。
『旧暦の三月二十二日のことです』
その言葉が、試験の終わりを告げるチャイムのように、頭の中で鳴り響いた。
翔は、上ずった声で尋ねた。
「今日は、何月何日だ」
「三月二十日だが、どうかしたか」
三月二十日!
「あと二日しかないやん!」
それは、泣き声に近かった。