花菱の夢(13)壱の夢 紅梅⑤
壱の夢
紅梅⑤
朝が来た。
翔は眠かった。眠ると夢の続きを見そうで、ずっと雨を見ていたのだ。
壊れた時計を見つめ、家族のことを考えた。元の時代に戻れるのだろうか、今頃みんなはどうしているのだろうか。けれど、そんな思いもまた、巡り巡って匂のもとに戻って来る。いったい自分はどうしたのか、なぜ彼女のことしか考えられないのか。翔の気持ちは、霧の中で道を見失っていた。行き場のない思いを持て余したまま、朝が来た。
食事が済むと一層眠い。
ごろんと横になる。そのまま、すーっと意識が遠くなっていく。
「失礼します」
鈴のような声に、翔は跳び起きた。
障子が開き、匂が入って来た。手には、針箱を下げている。
「昨夜の股引のことですが、布地を選んでいただこうと思いまして」
匂が手をたたくと、侍女が二人、反物を捧げ持って入って来た。
二人がそれを広げ始める。コロロ……と反物が床を転がる。瞬く間に部屋は色とりどりの絹の海になった。
翔は、思わず後ずさった。
(どんなパンツを作るつもりなんや。おしゃれなおばはんやあるまいし)
しかし、匂は楽しそうに布地を眺めている。
「これなどいかがですか。昨夜お召しになっていたものに、色合いが似ていますが」
手にした布を見て、絶句した。浅葱と紅梅の格子縞に、黄檗の水玉が花のように並んでいる。
「それより、こちらのほうがお似合いかしら」
こんどは、萌黄の地色に桜の花びらが散っている。
勢いよく首を横に振る。
「こ、こ、これにしてください」
そう言って、巻いたままの白い木綿を指さした。
匂はつまらなそうに、薄紅の唇をとがらせた。
「晒しではありませぬか」
「じ、じ、じ、十分です」
ぶんぶんうなずく翔を見て、匂は仕方なさそうにその布を取った。
侍女が反物を片付け退出すると、針仕事が始まった。
二人きりだと思うと、どうしても落ち着かない。それでも、外は雨だし行くところもない。何とかかんとか、話題を探す。
「左京さんは随分信頼が厚いみたいやけど、どういう家柄なんですか」
匂は、針を動かす手を休めず答える。
「穂積家の最初の家臣だと聞いておりますが」
「最初の?」
「はい。初代武田四郎様が甲斐の国より流れて来た折、高岡家の助けを借りて熊野街道に出没していた賊を退治したのが両家の起こりとか。以来三百年、互いに助け合い力を伸ばしあってきたと聞いております。確か、高穂城の名も、両家の一字を取ってつけたとか……」
言葉こそ冷めているが、その表情には誇らしげな色が浮かんでいる。左京の事を考えているのだろうか。翔の心は、見えない手でつかみ出されるような痛みを感じた。
「左京さんが……」
言いかけて、何を言いたいのか自分でも分からず、言葉を止めた。
匂は手を止め、翔を見つめた。たまらず目をそらす。匂が再び針を動かす。動かしながら、言い聞かせるようにつぶやいた。
「左京殿にとって大切なのは、父上だけです」
匂はそれきり口を閉ざした。翔も黙って壁にもたれた。
目の前には、匂がいる。その動きの一つ一つが翔の胸を打つ。落ち着きがあり派手ではない、けれど人目を引き付けてはなさない美しさ。真珠を握り締めているような幸福感が翔の心を満たす。それが眩しくて、目を閉じた。
「翔殿」
匂が呼んでも返事がない。
どうやら、座ったまま眠ってしまったようだ。
(この人は、いったいどういう身分なのかしら)
目の前の少年をじっと見つめる。武術の腕前から考えて、公家ではないだろう。といって、武士でもなさそうだ。戦場での戦い方をまるで知らなかった。では、百姓か。ひざの上に重ねられた手を見る。その皮膚のなめらかさは、今までどんな労働にも携わったことがないと告げていた。
そっと右手を伸ばすと、翔の頬に触れた。ツツツーッと白い指先が下がり、首筋で止まる。親指で唇をつつく。翔はくすぐったそうに肩を縮めたが、起きる気配は感じられない。
(どうしてこうも無防備なのでしょう。私が寝首を掻くかもしれぬとは思わないのかしら)
ふっと、左京の言葉が思い出された。
『時任殿は弱い振りをしているのではないか』
確かに、彼はそう言った。そうでなければ、自分の強さを知らないのではないかと。自分は手を抜かなかった。にもかかわらず、最初は決まった技が二度目には決まらなくなった。こんなことは初めてだと。
(もしかしたら……、翔殿は自分の力に脅えているのかもしれない)
ふと、そんな気がした。
こんな人は、初めてだ。どうしてこんな人がいるのだろう。
匂はそっと指を離した。これ以上関わらない方がよいと告げるように、胸が乱れる。
翔が目を覚ましたとき、匂はもういなかった。畳まれた下着だけが、そこにあった。
そっと広げてみる。それは、トランクスというよりブリーフに近かった。ゴムはもちろん入っていない。紐で縛る形になっている。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
大事なのは、それを匂が縫った、そのことだけだ。
仄かに残る梅の香りが、翔の心を射した。