花菱の夢(12)壱の夢 紅梅④
壱の夢
紅梅④
梅の香りがする。ああ、匂さんか。
あ、笑た。きれいやなあ。
こっちに来る。どうしよう。
触れてもええんやろか。抱き締めても……。
どうしよう……抱いてもた。
わっ、アップや。
そんなふうに見つめんといて。
えっ、瞳閉じて、キスしてもええんやろか。
ええよな。しちゃおっと……。
なんて、柔らかい。天使の胸……。
ちょっとだけ、触っちゃおかな……。
わっわっわっ……。
翔は、がばっと跳ね起きた。匂の残り香が見せた夢だった。思い出すだけで顔が火照る。
と、下着の異状に気がついた。
(やってもた っ!)
男の生理は、意志の問題じゃない。もちろん、女は、もっとそうだが。
(しゃあない、着替えを……)
と思って、はっとした。着替えはないのだ。
翔はトランクス愛用派だったが、この時代にあるのは褌だけだ。褌を締める気にはなれない。かといって、他のものを頼むこともできない。もし、トランクスを見られたら、奇異の的になるのは目に見えていた。
(洗うしかない)
そっと雨戸を開ける。汚れたトランクスを握り締め、裸足で庭に下りる。井戸に駆けより、水を汲み上げる。釣瓶がきしんだ音を立てる。その音に脅えるように辺りを見回し耳をすます。人の気配がないのを確かめ、翔は作業を続けた。トランクスを絞り、庭を見回す。ちょうど良い枝振りの木がある。翔は、その木に走り寄った。
(朝までに乾くやろか)
枝に伸ばした右手が、突然つかまれた。心臓が、一瞬止まった気がした。
振り向くと、左京だった。
「何をしておる」
「あ、その……何か、こう、見たこともない鳥が留まってたんで……」
我ながら、ヘタな言い訳だ。もちろん、左京は信じていない。
「ほう、では、そちらの手に持っているのは何だ」
慌てて隠そうとしたが、場所がない。つかまれている右手を振りほどこうとした翔の目に入ったのは、鯉口を切る彼の左手だった。
(本気や)
彼の腕前は、十分すぎるくらい身に染みている。逆らわない方が身のためだ。
「何だ。この布は」
左京は、けげんそうにトランクスを広げ、驚きの声を上げた。
「これは、伴天連の使う文字ではないのか」
彼の眼は、『FILA』のロゴに吸い付けられていた。慌てたように、トランクスの取り調べを始める。三色の格子縞を丹念にたどったり、裏返したり穴を覗いたり、果ては月明かりに透かしてみたり。見ている方が恥ずかしい。
納得がいったかどうか。左京は、
「これは預かっておく」
と、畳んで懐に仕舞おうとした。
「それは、困る。それは……」
「それは?」
「その……俺の国の褌なんです」
「褌? これが?」
翔はトランクスを引ったくると、寝間着の裾をめくりあげ、濡れたままはいた。
「こうするんです」
左京は目を丸くした。ぽかっと間の抜けた左京など、たぶん誰も見たことがないだろう。もっとも、見てうれしいものでもなかった。
「そういえば、前に堺で見た南蛮人が似たような物を身につけていたような……」
左京は一人うなずいている。
「しかし、それをどうするつもりだったのだ」
「替えがないので、洗って干すつもりで……」
「ばかばかしい。匂殿に言えば用意してくださるものを」
匂の名が出ただけで、体温がぼぼぼっと上昇した。
「ダメです。匂さんだけは、絶対」
あまりの勢いに、左京もたじたじとした。
「なぜじゃ」
「なぜって……」
翔自身もよく分からない。薫や菊なら、なんて事ない。男同士だ。他の女中さんだって大丈夫だ。でも、
「とにかく、匂さんだけはダメです」
翔がそう叫んだとき、
「何がダメなのですか」
と、当の匂の声がした。手にした燭代が、白い頬を満月のように浮かび上がらせている。
とたんに、頭の中が真っ白になった。えさをねだる金魚のように口をぱくぱくさせる以外、何もできない。
「これだ」
冷酷にも、左京は刀を抜くと、切っ先で翔の寝間着の裾をめくり上げ、その下に着けている奇妙なものを匂の前に晒した。
「まあ」
匂は口元を押さえ、軽く驚きの声を上げた。その頬は、ほんのり桜色になっている。
「替えがなくて困っているそうです。作ってさしあげますか」
「それは、すぐにでも。……、けれど、どのような造りになっているのでしょうか」
匂の声は、少し恥ずかしそうな、けれど真面目な響きだった。
翔は、この場を逃げ出したかった。言葉は何も見つからない。
「なに、股引の短いので十分ですよ」
左京が刀を鞘に収めながら、鼻で笑った。
「では、明日にでも」
匂の言葉は、翔の耳には届いていなかった。
二人が去った後、どっと疲れが襲ってきた。柱にもたれると、そのままずり落ちるように廊下に座り込んだ。
いつの間にか雨が降っていた。音もなく降り注ぐ霧雨の中、動く気も起こらず、そのまま座り込んでいた。