花菱の夢(11)壱の夢 紅梅③
壱の夢
紅梅③
その日、薫は姿を見せなかった。広い庭のどこかに潜んでいるのかと探したが、見つからない。
探しあぐねて、ため息をつきながら樫の大木にもたれた。ふっと上を見ると、そこに薫がいた。おそらく、翔には気づいていないのだろう。眠っているように目を閉じている。
声をかけようとして、やめた。誰でも一人でいたい時はあるものだ。翔自身がそうだ。嫌なことがあると、必ず山に行った。楠や樫のように高い木を選んで上った。枝にもたれて座っていると、大きな物に守られている気がして落ち着いた。
ふと気づくと、少し離れたところに左京が立っていた。何時からいたのだろう。たぶん、いや、きっと、ずっといたのだ。そうして、薫が降りてくるまでそこにいるのだろう。
「薫は、泣くところを人に見られるのが嫌いなのです」
左京は、決まり悪そうにそう言った。見ていることを見つかったのが恥ずかしかったのかもしれない。
「薫は、ホンマに左京さんの小姓なん?」
瞬時に、左京の口調が変わった。裁判所の判事のように事務的に問い詰めてくる。
「どういう意味ですか」
「ん、いや。何かこう、左京さんの方が薫のめんどうをみてるように思えたから」
左京はいつものポーカーフェイスに戻ると、
「前にも言ったと思いますが、あの子は私が親代わりになって育てたようなもの。少々甘やかしすぎたようですがね」
と、木の上を振り仰いだ。
そのとき、菊千代の声がした。
「翔殿。こんなところにいたのですか」
菊千代は息を弾ませて走って来ると、翔の袖を引っ張った。
「こちらに来てくださいな。鷹をお見せしますよ」
「あ、ああ」
チラッと見上げた木の上で、薫が慌てて視線をそらすのが見えた。
薫のことは気になるものの、いても仕方がない。左京がいるなら大丈夫だろう。
翔は引っぱられるまま、菊千代について行った。
鷹は、威嚇するように胸を膨らませ羽を広げた。白地に黒の横縞が、いかにも獰猛な野獣といった感だ。翔に向ける鋭い目付きは、まるで、新参者の正体を見破ってやろうとしているようだった。
「すごいでしょう。薫がね、私のために拾ってきてくれたのです」
昨年の夏、羽を傷つけもがいていたのを見つけたのだという。それを、さんざんつつかれて傷だらけになりながらも、菊千代のために持ち帰ってきてくれたのだと。
「名前はなんていうんだい」
「雷丸。雷山で見つけたから」
餌やりも巣箱の掃除も、何もかも自分一人でしているのだと、菊千代は胸をはった。
「鷹匠に教わって、訓練もしているのです。もう少ししたら、鷹狩に使えますよ」
「狩に? 菊は狩ができるんや」
翔は驚いて声を上げた。菊千代は赤くなると、下を向いて小さな声で付け加えた。
「父上が」
一瞬黙ったあと、二人は顔を見合わせて笑った。
その夜、もう寝ようと横になったとき、障子の向こうから匂の声がした。
「入ってもよろしいでしょうか」
「え、ええ」
慌てて寝床から這い出すと、畳の上に正座した。
入って来た匂は、両手で翔のジャージをささげ持っていた。
「随分汚れておりましたので、洗っておきました」
「あ、ありがとう」
翔がジャージを受け取ると、匂は時計を取り出した。
「それから、これは何ですか? その衣装の中から出てきたのですが」
「ああ、時計ですよ」
「時計?」
「時間を計るものですよ。ほらこうやって……」
言いながら、ネジを回して見せる。針がチッチと微かな音を立てて動き出す。
匂は目を丸くした。
「これは……どのようなからくりになっているのですか」
「さあ、俺が作った訳やないんで……」
時計はしばらくリズムを刻んでいたが、すぐまた動きを止めた。
どこか壊れたのだろう。が、直しようがない。第一、今の生活には必要もない。
「翔殿の持ち物は、不思議なものばかりです」
匂は、感心したようにため息をついた。
「その衣装も、造りだけでなく、布地も初めて見るものです。翔殿の故郷では、みなそのようなものを身につけているのですか」
問われれば、そうだと答えるしかない。
「もっと教えてくださいな。あなたのお国のことを。本当は、どちらからいらしたのですか」
匂がそっと身を乗り出す。甘い香りが鼻と胸をつく。耐え切れず、下を向く。
「どちらと言われても……」
匂は、その顔をのぞき込むように、かわいらしく首をかしげた。
「だって、ほら。これは異国の文字でしょう。読めますの?」
言いながら、Tシャツのバックプリントを指さす。
「KAWANAMI T&F」
「てぃあんどえふ?」
「トラック、アンド、フィールド。陸上部のロゴだよ」
河波中は小規模校のため、全校クラブ制だが剣道部がない。そのため、学校では陸上部に所属している。
「りくじょうぶのろご、とは何ですの」
翔は問われるままに答えていく。匂は、その度、驚いたり感心したりして見せる。二人の距離が、精神的にも物理的にも縮まっていく。いつの間にか、寄り添うようにして座っていた。
幸せなときめきを破ったのは、左京だった。
「匂殿、何をしておられるのですか」
いきなり障子を開かれ、翔はパッと体を離した。恋人との逢い引き現場を親に踏み込まれたような恥ずかしさと罪悪感が、胸をチクチク責める。
「翔殿のお国の話を聞いておりました」
悪びれもせず、匂は答える。左京は、苦々しげな顔付きで吐き捨てた。
「このような時間に男の部屋になど。殿が聞かれたら、どのようにお怒りになることか」
「父上は怒りませぬ」
匂はついと立つと、廊下に出た。が、足を止め、翔を振り返った。花がこぼれるように微笑むと、暗闇に消えていった。
射すように鋭い視線で、左京が言葉を放つ。
「命が惜しければ、匂殿には手を出さぬことだ」
ピシャリと障子が閉まる。二つの足音が消え、静けさが戻った室内に、匂の残り香だけがひっそりと漂っていた。
それは本当に微かだったが、翔の煩悩だらけの頭を悩ますには十分すぎた。