花菱の夢(1) 夢の始
追っ手に取り囲まれ自害し果てようとした子らを哀れに思われた雷神は、龍に乗り、雷と共に連れ去りぬ。以来、雷の鳴る日に雷山に入ると、雷神の怒りに触れて神隠しに遭うと伝え聞く
昇竜寺蔵『穂積家伝聞録』より
夢の始
西暦二〇〇四年六月二十六日(土)午前十時
誰かに呼ばれたような気がして、翔は空を見上げた。その頬に、ポッと冷たいものが触れた。さっきまでの晴天が嘘のように、白い霧のような雲が次々と山に沿って生まれてくる。Tシャツに染みる雨が冷たい。
(瑞穂は、もう帰ったやろか)
瑞穂は、翔より三歳上の高校三年生。隣に住む剣道の師匠の姪だ。一緒に雷山にある昇竜寺に行く途中、トラブルがあって帰ってしまった。
(あいつのことやから、真っすぐ帰ったとは思えんしなあ)
翔はぼさぼさの頭をガリガリ掻くと、ジャージのジッパーを襟元まで上げた。黒いジャージは薄暗い林の中に溶け込み、オレンジの蛍光ラインだけが動いて行く。
雨はますます激しくなり、雷神様を祀った祠を過ぎたころには、顔を上げることもできないほどになった。
滑らないよう、足元に注意しながら走る。スニーカーが、水を含んで重い。細めた目に一本の大木が映る。
(あの杉の木を過ぎれば……)
自転車を止めた広場に出るはずだった。
が、翔は足を止めてそびえ立つ木を見上げた。
「檜や……」
どこかで道を間違えた? 下ばかり見てたから。
慌てて方向を変えると、今来た道を逆戻りする。今度は少しゆっくりと、周囲の木々に注意を払いながら。
(こんなとこで迷子になったら、それこそ神隠しや)
翔は、父親の照れたような笑い顔を思い出した。
昨日の夕食時、宿題のレポート作成のため昇竜寺へ行く話をすると、母の遥は問い詰めるような口調になった。
「来週は期末テストやろ。今頃レポートっておかしいんやないの」
内心ギクッとしたが、適当にごまかした。締め切りはとうに過ぎ、未提出は自分一人だけとは、怖くてとても言えなかった。
しかし、父の渉はのんきに笑った。
「雨が降ったら雷山には入るなよ。あそこは神隠しの山やからな」
これでも、役場に行けば、戸籍課の課長補佐だというのだから、翔には不思議だった。
「ケッ。そんな迷信、信じてんの」
翔に鼻で笑われ、渉はちょっと恥ずかしそうに咳払いをした。
あんなものはただの迷信だ、翔は今もそう思っている。思ってはいるものの、焦りを感じ始めていた。子供のころから遊び歩いた自分の庭のようなこの山で、どうにも見覚えのある木を探し出せないのだ。
そして、翔は再び足を止めた。目の前にさっきの檜が立ちはだかっていた。
(な……んで?)
呆然と見上げる樹上が、瞬間明るくなった。
ガラガラガラ……。
大岩を転がすような音が、山じゅうにこだまする。それを合図としたように、雨が一層ひどくなった。
(雷!)
翔の幼い顔が情けなく歪む。雨は、その顔を容赦なく叩きつけた。伸びすぎた前髪が、広いおでこに張り付いている。雨水は、そこから整えていない眉に沿って流れていく。瞬きをする度、驚くほど長い睫が水滴を弾いた。
また空が明るくなり、雷鳴が轟く。さっきよりも近い。
(木のないとこへ、広いとこへ出やなあかん)
雷は木に落ちやすい。今いる場所は危険だ。
自分で自分を励ますと、翔は足を動かした。
ふと、右手を見ると、幹の透き間から空が見えた気がした。
もしやと思い、林にもぐりこむ。予想どおり、すぐに木立が切れ、視界が広がった。
(やった)
そう思ったのも束の間、翔は三度足を止めた。
そこは、切り立った崖だった。高さは三階より少し低いといったところか。下には畑が広がっている。
飛び降りようか、どうしようか。迷う背後に声がした。
「翔! 何してんの」
瑞穂だった。
(このアホ。やっぱ帰ってなかったんや)
おそらく、後をつけてきていたのだろう。翔同様、濡れねずみである。浅葱色のTシャツは体に張り付き、細身のジーンズは窮屈そうだった。
「さっさと帰らんか、このアホ。あんたが帰らな、私も帰れんやないの」
きれいな顔立ちに似合わぬ口の悪さで、瑞穂がつかみかかって来た。
そのとき、ひときわ大きな稲妻が、二人の傍らに立っている栗の木を目指して飛んで来た。
「きゃ 」
瑞穂の悲鳴を聞きながら、翔は真っ逆さまに落ちていった。