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海苔ノリ浅草寺

作者: 黒森 冬炎

 高木浪江は浅草寺を訪れた。お江戸の名産品である海苔は、家康が江戸城にやってくるよりも前から商われていたという。その頃は品川あたりの漁民が、流木などに付着した海苔を収穫して観音様の門前市で売っていたのだそうだ。まだ板状に漉いて乾かすことは愚か、養殖すらされていない昔の話だ。


 海苔好きの浪江は、浅草海苔誕生の地を旅していた。古くは浅草川と呼ばれ、江戸の昔には一部を大川と呼んだ隅田川の河口あたりから、ぶらりぶらりと歩き回る。


 浅草海苔=アサクサノリ、Porphyra(プロフィラ) tenera(テネラ) は、昭和の頃に一旦生産中止となった。近年、故郷から遠く離れた三重で復活したという。旅の続きに三重まで足を延ばしても良いなあ、と浪江は思っている。



 浪江は、平凡なサラリーマン家庭に生まれた。特に教育熱心でもない家庭だった。しかし、土地柄が良くなかった。周囲の子供達は、その多くが幼稚園やら小学校やらのお受験をしていた。浪江本人は蚊帳の外だったのだが、空気感というものはある。


 そうした受験一色の雰囲気に追い立てられるように、浪江もせっせと受験勉強をしたものだ。結果、中堅大学の文学部に入学した。ドイツ近代詩で卒業論文を書いて、無難な講評を得てすんなり卒業できた。


 だが、専門とは関係のない工場に就職した。個人経営の印刷所である。その小さな工場で植字工見習いをしていたが、半年後には倒産の憂き目に遭った。入社時から、潰れるのではないか、という不安はあった。なにしろ、お爺ちゃん社長が化石のような凸版印刷だけを頑固に続けていたのだから。



 その後、入る会社が悉く潰れた。一週間でなくなった会社を最後に、ふと馬鹿馬鹿しくなって旅をしている。何故採用したのだろうか。たったの7日で営業終了だと決まっていたのに。悪徳企業というわけでもなく、最終日には、すべての従業員に日割りの給与が支給された。


「それじゃ、達者でな」


 小さな紙問屋の門口で、帰る社員一人ひとりに、社長は浅草寺のお守りを配った。浅草どころか東京ですらない土地にある会社だというのに。


「へえ、お守り」

「お守りなんかくれたってなぁ」


 8人しかいない従業員たちは、口々に不満を述べた。皆、受け取ると見もせずに鞄やポケットにねじ込む。お揃いの餞別は、心願成就の黄色いお守りだった。表には龍が刺繍されている。


(このお守りって、自分でお詣りした帰りに買うんじゃなかったっけ)


 しかし、浪江はそんなことを尋ねてみる勇気は持ち合わせていない。他の7人同様に黙って受け取り、通勤リュックにそっとしまった。



 7人のその後は知らない。やっと名前を覚えた程度の間柄だったのだ。連絡先も分からない。浪江は積極的に聞く方ではないのである。


 そうして虚しく帰宅して、翌朝目覚めてお守りを見た。


「浅草寺かぁ」


 無目的に朝食を摂る。老父母と離れ、すでに一家を構えた兄とも離れて独り。白飯に豆腐とワカメのおみおつけ、ネギは小口切り。板海苔を炙ってパリパリ割った。


「浅草海苔の故郷だねぇ」


 板間に置いた小さな円いちゃぶ台にお守りを載せて、食事をしながら独りごちる。


「そういやぁ、浅草って、行ったことなかったなぁ」



 他に予定があるわけでもなし、浪江はその日、浅草海苔の故郷へと旅立った。地下鉄の細い通路を抜けて地上に出る。浪江は明るさに目を細めた。


「いいお天気」


 おのずと目元口元が弛む。軽やかな足取りで、草臥れた黒いスニーカーは雷門へと向かう。観光客が順に写真を撮る姿を楽しく見学した。それから巨大な赤い提灯の下を潜って、仲見世の人混みに揉まれた。


 ペラペラの観光用キモノが、ひらひらと尾鰭を揺らす金魚のように風に遊ぶ。子供用の絵日傘が軒先に花を咲かせる。美味しそうな香りがあちこちから漂う。


 扇を扱う有名な店を覗けば、外国人も日本人も顔を寄せ合って選んでいる。日本人でも扇の開き方を知らずにもたつく者もある。そんな冷やかし客には、店主が険しい顔をして飛んできた。商品なのだ。壊されては大変だ。


 女性で賑わう店には、つまみ細工の簪が並ぶ。絹や化繊の藤に桜に蝶々たちに、金銀のビラビラ飾りが寄り添って下がる。踊りや七五三のほか、ケースのまま観て楽しむ人も多いと言う。小さなものを浴衣飾りに求めて帰る学生グループもいた。



 広い階段にも人、人、人。流れに乗って形ばかりのお詣りをする。お守りを眺めていると、ひとりの少年が黄色いものを手に取った。


「ココロネガウ?なんだこれ?」

「心願成就、心に想う願い事を観音様に伝えた後でこのお守りを購入すれば、叶うそうよ」


 ガサツな息子に、苦笑いの母親が穏やかな声を響かせて答えた。


「へぇ、友達にも買ってこ」

「あら、自分で来なくちゃ」


 母の言葉には、売り子が口を挟んだ。


「先日、代願の方が複数お求めになりましたよ」

「まあ、そうなの?代願ねぇ」


 浪江は思わず背中に手を回す。仕事リュックは気軽な旅行の友となっていた。中には、別れの日に渡されたお守りがある。社長は、皆の心願が成就するようにと代願をしてくれたのかも知れない。なんだか胸が熱くなる。


(心願、なんだろうなぁ)


 浪江は、ぼんやりと考えながら境内を散歩した。


(海苔の収穫、見てみたいかも。昔はどんなだったのかなぁ)


 広重の描いた、海苔を収穫する舟の様子を思い浮かべる。海一面に帆を張って、忙しく働く様子は壮観だろう。現代では水質汚染で廃業したそうだ。



「さぁさぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」


 観音様の脇から細道に入ると公園がある。古風な呼び込みで何かを売っている。違法行為じゃなかろうかと眉を顰めて、浪江は声の方に目を向けた。


「江戸の昔の花川戸、花も縁の隅田川、家康公よりなお昔、浅草川と呼ばれていたのをご存じか?」


 名調子の小父さんが並べているのは、海苔であった。遊具から子供が降りてきて、通行人も足を止めた。物珍しさに外国人も寄って行く。浪江もなんとなく近づいた。


 小父さんは口上を述べながら、小さな海苔の欠片を配る。試食品だ。ふわりと磯の香りが広がる。波の音がしたような気がした。



「えっ?」


 浪江は青褪めて辺りを見回す。確かに浅草寺付近の公園に居たのに。いったいどうしたことだろう。突然、波音高く潮の香りもはっきりとした河口に立っていた。


 辺りは薄暗い。夜明けのようだ。散歩していたのは真昼である。時間も場所も全く違う。沖には漁船らしき小舟が見えた。浜辺で海藻を拾うのは、頭を布で包んだ女たち。


 筒袖の作務衣を伸ばしたような物を着て、せっせと働いている。海苔だろうか。波に漂うものを拾っては手桶のような物に放り込んでゆく。


 ふと、女たちの1人と目が合った。女は大きく目を見開き、棒立ちになる。異変に気づいた仲間数名もこちらを睨んで腰を伸ばした。浪江は気まずくなって軽く頭を下げると、踵を返す。



「あっ、お待ちくだせぇまし」


 最初に気づいた女が引き止める。浪江は訝しそうに振り向いた。


「観音様でごぜぇましょう?」

「ありがたや」

「なんと不思議なお召し物」

「尊や」


 期待を込めた眼差しが痛い。


「ええっ、いや、違いますよ」


 女たちは顔を見合わせて囁き合う。


(違うのに)


 浪江は戸惑った。


「どうぞこちらへ」

「あ、いえ、その」

「ささ」

「ささ」



 女たちに手を引かれ、浪江は粗末な板屋根の小屋に辿り着いた。表には斜めに設置した戸板のような物が見える。そこには、海藻を並べて干してあるらしい。


「ちょうど明日、観音様まで持って行くつもりの海苔が出来てごぜぇます」

「ちゃっと炙りますゆえ、召し上がっておいでなせぇまし」


 微妙な訛りの女たちは、時代劇のような言葉を使う。誘われるまま、浪江は小屋に入った。蓋つきの竹籠を開いて、女たちが海苔を取り出す。畳んで乾燥させただけのものだ。


「これが」


 浪江は思わず言葉を漏らした。


「ええ、(みやこ)の貴人もお求めなさるとの海苔にごぜぇます」

「観音様の境内でも、たいそうな評判ごぜぇます」


 浪江を観音様だと思っているためか、真面目な顔で女たちは対応する。中の1人が、大切な商品と思しき乾物の端をチョイと折る。


「貴人は炙って召されるとやら」

「我らにゃとんと口にも出来ぬ良きものじゃ」


 乾いた海藻はチリチリと縮まり、芳ばしい香りが小屋を満たした。


「こんなものでよかろうか?」

「よかろうぞ」

「あまり炙ると焦げるぞな」

「さよじゃ」


 女たちは肩を寄せ合い相談した。良きほどにて、欠けた皿に炙った海苔を載せて捧げ持つ。そのまま一同は膝をつき、頭を下げて無言になった。


「ええぇ」


 浪江は混乱した。



 辺りの風景や話の様子から、白昼夢にせよ時代(とき)渡りにせよ、天正年間あたりに来てしまったようである。しかも、観音様だと思われている。否定しても信じてくれない。


(まあ、仕方ないか)


 ふぅ、と息をついて目を閉じると、浪江は静かに瞼を上げた。目の前には、魅力的な紫色の海藻がある。干して炙っただけではあるが、磯の香りが食欲をそそる。藻塩が乾いて霜を纏ったような海苔は、そのまま齧っても美味しそうだ。


(平安貴族も海苔を炙って愉しんだらしいじゃない)


 好奇心が警戒と困惑を凌駕した。浪江はにっこり笑う。


「皆さん、ありがとう。お海苔、大好きなんです」

「おお」

「ありがたき幸せ」

「尊や、尊や」

「南無観世音」


 浪江は欠けた皿から乾海苔を摘みあげた。しげしげと見つめた後で、鼻先に持ってゆく。思い切り息を吸い込むと、満ち足りた気分になった。



 いよいよ口を開く。パリッ、と小気味良い音がする。炙り海苔は音を立てて割れた。


「美味しい」


 素朴で濃厚で、いくらでも食べられそうだ。塩はやや強い。お茶でも欲しいところである。だが、粗末な小屋にそのような飲み物はないようだ。


 女たちはもう口を閉じ、ただ平伏している。なんとも奇妙な感覚である。浪江は黙って海苔を喰む。



 最後の一口が胃袋へと消えた。満足そうに、再び目を瞑る。潮騒を聴きながら、浪江は余韻に浸った。観音様の鐘が鳴る。ゴーン、ゴーンと長閑に、厳かに、重く優しく、風に乗って聞こえてきた。


 眼を開くと、金色の光があたりに溢れていた。夜明けである。そこは住み慣れた四畳半。浪江の安アパートだ。ちゃぶ台の上に寝かせたお守りが、朝日を浴びて金色に輝く。


 刺繍の龍と眼があった。


「ふふ」


 浪江は忍び笑いを漏らす。龍はニッとやんちゃに牙を見せる。


「どうだい、願いが叶った感想は?」


 龍は好好爺のような声で言った。


「楽しかった!もっと色々な昔の海苔を食べたいわ」


 浪江は龍へと屈み込んで答えた。


「ははっ、なんだい。欲張りだなあ」

「そう?ほんの慎ましい願い事だと思うんだけども」

「全く、人間って奴ぁ」


 不服そうな龍は小首を傾げて考える。


「そうさなぁ」


 浪江は瞳をキラキラさせて返答を待つ。


「まあ、紙問屋の願いだしなぁ」


 浅草で発明された板海苔は、遊女の使う漉き返しの古紙から発想を得たと言われている。紙屋と海苔とはご縁があるのだ。


「ちゃんとお礼参りをするのだぞ?」

「ええ、もちろん」

「よし、それじゃひとつ、時代(とき)を越えるかな?いざゆかん!遥かな時の彼方、魅惑の海苔が待つ場所へ!」


 金の光は眩く燃えて、海の匂いが立ち昇る。浪江はかつてないほど愉快な気分になった。


「ふふふふふっ」


 ちゃぶ台の上からお守りを取り、思わずチュッと口付けた。忽ち龍は布を飛び出し、するりと浪江を背中に乗せる。


「そら、飛び越えるぞ。時代(とき)の狭間にゆめ落つるなよ!」

「ええ!角、掴んでもいい?」

「おうともよ、しかと齧り付いておれ!」


 2人は満面の笑みで、光の渦に巻かれて消えた。それからというもの、浪江と龍はあらゆる時と場所で海苔をたべあるいたのだった。


お読みいただきありがとうございます


挿絵(By みてみん)

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― 新着の感想 ―
[良い点] 干して炙っただけではあるが、磯の香りが食欲をそそる。藻塩が乾いて霜を纏ったような海苔は、そのまま齧っても美味しそうだ。 ⬆ 是非とも、今すぐに、そのまま齧りつきたい衝動に駆られます。 やっ…
[良い点] 現代の浅草寺界隈に、タイムスリップ先である天正期に浅草川周辺。 いずれも日本的な情緒に満ちた場所ですね。 仲見世通りの町並みや海苔の産地として活気のあった時代の浅草川周辺の様子が丁寧に描写…
[良い点] のりー!パリッとして、香り豊かなのりー! 食べたくなりました。 そのまま、食べても美味しいのでしょうね。 読んでいて、浅草さんぽしたことを思い出しました。 観光にでも行った気分に浸ってい…
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